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                   本日の説教より 

2017年10月1日
「あなたがたも愛によって歩みなさい」<<エフェソ書5章1~13節>>

◎エフェソ書6章全体で後半(4~6章)は特に実践的な勧告が書かれています。そして「~するな」との否定形、「~しなさい」との肯定形の形で書かれていることもすぐに分かります。なぜ、私たちは勧告・命令を受けるのでしょう?
◎それは「あなたがたは神に愛されている子ども」(1節)だからです。 神に愛されているという事実はとても大きなことですが、多くの人々はそれに気付かずに日常を過ごしてしまっています。神さまの恵みの大きさに気付かないままに過ごしてしまっているのです。畏るべきことです。
◎神さまのご性質については百万の言葉を並べても充分ではありませんけれども、何よりも私たちを十字架の贖いを通して愛し抜いた愛そのものであるお方(「神は愛である」)で、私たちはその子どもである、ということ。ここから出発しましょう。その愛に応える事が必要だからです。
◎本日は肯定形で書かれている命令に注目しましょう。
先ず冒頭に「神に倣う者となれ」とあります。これがすべてを要約していると言っても良いのです。今、「愛」そのものであるお方が神さまであると述べましたが、その「愛」に倣う者となる。それは決して容易なことではありません。その最期は死にまで達する犠牲の愛なのですから。
◎「感謝を表す」(4節)、「光の子として歩む」(8節)、「何が主に喜ばれるか吟味する」(10節)、「(暗闇の業を)明るみに出す」(11節)です。これらはすべて、一方的に与えられた「神の愛」なのですから、それに応えて歩むだけです。



2017年10月8日
「働かざる者は」<<Ⅱテサロニケ 3章6~15節>>

◎本日の説教題「働かざる者は」はその後に「食うべからず」と誰もが続けるほど人口に膾炙した言葉です。しかし、これが聖書に由来した表現であることを知る人は意外に少ないのではないでしょうか。 パウロが「働かざる者」と言うときに具体的にはどのような人たちに言及したか?
◎それはテサロニケの教会の中に、もう「この世の終末」は近いと思い込んで、働くことを止め、他人の厄介になることばかりを考えている人が居たのです。働くことは時間の無駄だ、と。当然のことですが、パウロはそのような態度は本当の信仰者の姿ではないと諭します。そして、そのような人たちを避けて「落ち着いた生活」(12節)をするようにと命じます。(「勧める」より強い語です)
◎先ず、パウロ自らの宣教の働きが「だれにも負担をかけまいとして夜も昼も働きながら・・」(1テサロニケ2:9) の生活であったことを告げます。パウロはテント作りをしながら自給伝道をしたことは良く知られた事実です。労働を軽視する等ということはとんでもないことなのです。
◎プロテスタントは「懸命に働くこと」を強調します。ジョン・ウェスレーも「一生懸命に働いて、たくさん貯めて、そして精一杯捧げなさい」と言いました。ルターは「明日、世界の終わりが来ることが分かっていても、今日、リンゴの木を植える」と言ったとされます。罪の結果としての労働は主イエスの十字架の贖罪によって、他者のために働くことこそが神の愛に応えることだとされたのです。



2017年10月15日
「信仰の先達たちに学ぶこと」<<ヘブライ11章8~12, 17~22節>>

◎「信仰によって」というキーワードが11章全体にわたって何度も出て来るこの箇所はその名の通り「信仰の章」として知られています。その信仰を生きた実例として旧約聖書の人物を引き合いに出して論証します。
◎著者はまずその信仰を定義して「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」(1節) とします。「確認すること」と言いながら「この人たちはすべて、その信仰のゆえに神に認められながらも、約束されたものを手に入れませんでした。」(39節)と、その信仰が徒労に終わったかのような表現をするのです。矛盾なのでしょうか?
◎決して矛盾ではありません。自分の願っていることがすべて叶うのならば、こんな都合の良い神様は居ません。換言するならばそれは神様を自己実現の手段としているに過ぎないのです。 それは御利益信仰に過ぎません。そうではなく、手に入れたいと思うものを手に入れなかったとしても・・例:モーセがカナンの地に入れなかったように・・神様の御心を信じて生き抜く、これが信仰なのです。
◎アブラハムもまず自らの過去(地位や財産)を捨てて、不確定な未来に向けて、神様の言葉だけを頼りに旅立ちました。これが信仰なのです。それどころか、自分の未来そのものである息子のイサクをすら差し出そうとします。彼はそうしたとしても「神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです」(19節)と信じていたのです。彼は既に復活信仰に生きていたからこそできたのです。



2017年10月22日
「目から涙をぬぐい取られる神」<< 黙示録7章9~17節 >>

◎「黙示録」は私たちにとっては謎の象徴的な数字や言葉がたくさん用いられています。本日のテーマは「天国の市民権」あるいは入場券を誰が持つのか、と言えます。すなわち、私たちが天国に迎え入れられるために何が求められているのかということ、その資格についての問いです。
◎まず「あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民」 とありますから、「すべての人」に天国は開放されている事です。ここには偏狭な民族主義や自国中心主義といったものがありません。旧約時代のイスラエルでは自分たちだけの救いでしたが、新約には排除の思想はありません。
◎「すべての人」にとは対象であって、その中でも資格を持った人がいます。「白い衣を身に着け」 た人です。これは分かり易い比喩ですが、注意が必要です。自ら白い衣を選んで身につけた、というワケではないことです。それなら、誰でもそれを買ってくればすむことです。そうではなくて、その白さとは「小羊の血で洗って白くした」(14節)ものでなくてはなりません。言うまでもなく、それは主イエス・キリストによる十字架の贖いの血潮がそうさせるのです。
◎キリストが「玉座の中央におられる小羊」(17節)に例えられますが、それはキリストによる神の永遠の支配を意味します。その周りで「白い衣を身に着け」 た人たちがなすべきことは「玉座の前にひれ伏し、神を礼拝」(11節)することです。そして終末の時、小羊なる神ご自身が私たちの「目から涙をことごとくぬぐわれる」(17節)時が来るのです。



2017年10月29日
「創造における人間への配慮」<< 黙示録2章4~9節 >>

◎本日は「宗教改革記念日」礼拝(厳密には10月31日)として守ります。いわゆる三つの「のみ(ラテン語でsola)」という宗教改革の標語があります。「信仰のみ」「恵みのみ」「聖書のみ」です。名前は良く知られたマルティン・ルターという人物が1517年にヴィッテンベルク城教会の門に、
95箇条の論題を貼り付けたとされる日付から今年はちょうど500年を経、各地で記念行事が開催されました。
◎三つの「のみ」をルターが発見するために彼は多くの苦悩を経験します。人間はどうしたら救われることができるのか? 当時の(ローマカトリック)教会は贖宥(しょくゆう)符を発行して人間の行為を優先しました。「献金箱の
中で金貨が音を立てるやいなや、煉獄(れんごく)で苦しんでいる魂は天に引き上げられる」と彼らは主張します。
◎そのために説教者たちは贖宥符の販売拡大のために声を張り上げたとされます。 救いがお金で買えるとなると人々は聖書を読んだり、信仰生活を大切にしなくなってしまいます。果たしてそれで本当に人は義とされるのでしょうか。これがルターの悩みであり絶望へと導きました。
◎ルターを救ったのは聖書の言葉でした。種々ありますが、詩編31、71編冒頭の「恵みの御業(原語=あなたの義)によってわたしを助けてください。」がルターを人間の義ではなく、上からの一方的な神の義、恵みのみが人間を救うに至るという結論に到達します。聖書と信仰への渇望が改革への流れを決定づけたのです。