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                   本日の説教より 

2017年12月3日
「主に贖われた人々は帰れ」<<イザヤ書51章4~11節>>

◎本日の聖書箇所の中で「わたし」という言葉に線を引いて行くと、何度も現れることに気付きます。この「わたし」は主なる神です。「わたしの救い」(三度)、「わたしの腕」(二度)、「わたしの恵みの業」(二度)という具合です。神さまが自己主張をなさっているのです。人間の自己主張等、聴くに値しないかも知れません。でも、神さまの自己主張です。
◎神さまはまず、「わたしの民よ」「わたしの国よ」(4節)と呼びかけられます。ここにも自己主張があります。それは「わたしたち」は神さまに属する者、神さまの民であり、国であるというものですが、当時のイスラエルには国はありませんでした。バビロンによって滅ぼされ、彼らは捕囚の民となっていたからです。希望を絶たれています。
◎そのような民に向かって「そこで家を建て、子どもを産んで生活しなさい」と進めたのがエレミヤです(29章)が、捕囚の民の忍耐に主が応えてくださり、主がエルサレムへの帰還(回復)を約束して促してくださるから、帰って来たら良いのだよ、と励ましているのが本日のイザヤです。
◎捕われの民となってほぼ50年間、もはや故郷のことなど忘れてしまった世代が生まれつつあった時です。イザヤは「わたしの救い」「わたしの恵みの業」として力強く宣言します。私たちは故郷エルサレムへ戻って良い、否、神さまがその事を臨んでおられるのだと。そうして民を奮い立たせます。こうして捕囚の民の帰還は喜びの内に実現するのです。神さまの自己主張は贖いと救いなのです



2017年12月10日
「主の言葉が書き留められて」<<エレミヤ書36章4~25節>>

◎本日の聖書箇所は、聖書の言葉がどのように書き残されたのかの経緯を証言する大変重要なテキストです。預言者エレミヤが口述する言葉を書記のバルクが筆記しました(4節)。このようにしてエレミヤ書がわたしたちの手許に届けられたのです。しかも何度も書き直されてです。
◎当然のことですが、書かれたものは人々の前で読み上げられます。何の目的のためか?それは人々に読み聞かせて悔い改めへと導くためです(7節)。 実はエレミヤは今まで直接、人々に語れていたのですが、預言の内容(ユダ王国への神の審判が近い!=26章)の故に、神殿に近づくことができなくなったので、バルクに命じて語らせたのです。バルクはエレミヤに命じられた通りに実行します。
◎それは様々な反応を生みます。宮廷の役人たちの計らいでヨヤキム王の前でその巻物が読まれます。しかし、王の反応はと言うと酷いものでした。その巻物をナイフで切り裂いてすべて燃やしてしまったのです。自らの王国への滅亡の預言など聞きたくもない、ということでしょう。誰も恐れを抱かず、悔い改めようとしなかった(24節)、とあります。この事の故に、ユダは滅び捕囚となって行きます。
◎エレミヤは後にイスラエルの回復の預言をも書き残します(30章以下)。私たちには神のことばとしての主イエスの言葉が聖書に残され、悔い改めを迫り福音に生きるように導かれています。この言葉の主であるイエスの誕生を喜び、聖書に真摯に応答することが求められています。



2017年12月17日
「慰めよ、わが民を慰めよ」<<イザヤ書40章1~11節>>

◎イザヤは「慰めよ、わたしの民を慰めよ」と捕囚の民に対して語るように命じられます。慰めを語るとはどういうことでしょうか。それは何よりも他者の悲しみや痛みに寄り添うことでなければなりません。しかしもちろん、それは決して容易なことではありません。
◎イスラエルの置かれた状況も故郷ユダヤから遥かに離れたバビロンという捕囚の地で、約50年にもわたって忘れ去られたかのような存在です。何よりも自分たちのアイデンティティが崩壊して、多くの人たちがバビロンの生活や風習、宗教(偶像)に絡め取られてしまっています。人々は言います。「元の生活に戻れだって?」と。
◎この時、イザヤの呼びかけに応える人たちが居なければイスラエルは歴史のどこかに埋没してしまっていたでしょう。しかも、故郷に戻る道は洗礼者ヨハネの働きに引用されるように「荒れ野に道を通す」ような困難な道筋です。しかし、それは神さまの一方的な愛のわざであり、「わたしの民」として選ばれた神さまの恵みのわざなのです。
◎今朝、アドベントにこの箇所が読まれる理由は王であるにもかかわらず、私たち人間の弱さとはかなさ(6~8節)の姿の極みである赤ん坊の形でこの世に来られた神さまの謙遜なお姿に学ぶためです。それと共に神さまの言葉(ヨハネ1:1)の永遠性が教えられます(8節)。 イザヤはさらに加えて、柔和な羊飼いの姿も教えてくれます。最後の一匹までも決して見捨てず探し出す神さまの姿としてです

2017年12月24日
「飼い葉桶の中の沈黙」<<ルカ福音書 2章1~7節>>

◎クリスマスの時に孤独感を感じる人たちが増えていると言います。 この季節を真に喜ぶことができない人たちです。しかし、そのような人たちの所こそ、主イエスがお産まれになった飼い葉桶であること、そしてその場所は私たちが手を伸ばそうと思えば手を伸ばせる場所だということを心に留めたいと願います。多くの行き交うだけの人々の世界は何と殺伐としていることでしょうか。
◎クリスマスとは私たちが人間の力の支配下に残り続けるか、神さまの愛の支配下に心を移すかのどちらかの選択です。主イエスが赤ん坊の姿でお生まれになったのは、その弱く小さなお姿に対して、私たちがどれだけ心を割いて行けるか?どれだけ時間と体を使えるかという問題です。
◎事実、「宿屋には彼らの泊まる場所がなかった」とあるように、先に来た人たちやお金にものを言わせる力のある人たちは自分たちさえ良ければそれで良し、と考えます。即ち、自分以外の存在に心を寄せることのできる心の広間がないのです。 小さなか弱い赤ん坊という存在を受け入れるほどの広さです。たったそれだけの広さだけで十分なのです。それが世界を変えて行くのです。
◎世界は民族や宗教のみならず、住んでいる環境に拠ってますます大きく分断されつつあります。 戦争の噂も耳にしま。 誰もの心が冷め切ってしまっているようにも思えます。 今こそ、飼い葉桶の中にか弱い泣き声しか上げられない赤ん坊の存在に目を留めようではないですか!


2017年12月31日
「博士たちがもたらしたもの」<<ルカ福音書 2章1~7節>>

◎1月6日の公現日(エピファニー)までを教会の暦では降誕節としてクリスマスのお祝いを続けます。 クリスマスが祝われるようになる4世紀のキリスト教が公認されるまで、教会は異教の風習(皇帝崇拝、太陽神礼拝等)との戦いがあったのです。 この年末最後の礼拝を、その恵みを数えながらクリスマスのひと時を過ごしたいと思います。
◎「学者たちはその星を見て喜びにあふれた」(10節)とあります。 クリスマス後の最も定番の聖書箇所です。 異邦人ですらも主イエスを拝みに遠路、やって来るというこの記事は真の救い主に出逢うことで異教に勝利したことを指し示すものと、教会では受け止められて来ました。
◎さて学者たちはその星を見てまず喜びにあふれます。 そして躊躇なくその星に導かれ、その星を探しに出かけます。旅をする事が全く当たり前ではなかった時代に、彼らは主イエスに出逢うために、危険をも顧みずに時間と体力、そして彼らにとっては最も高価な贈り物、すなわち持てる財力をすべて携えて、主イエスに捧げるために出発します。だからこそ主イエスに出逢う喜びは大きいのです。
◎カトリック教会は16世紀に、またプロテスタント教会は19世紀初頭に東方の星に導かれてアジア(主にインド、中国)に宣教師が出かけて行きます。 開国間もない日本には1859年にヘボン師、ブラウン師らがやって来ます。彼らは自らの人生という尊いささげ物を携えて、その
生涯を日本に捧げたのです。その事を心に刻みましょう