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日本フリーメソジスト教団阪南キリスト教会のホームページへようこそ

阪南キリスト教会 / hannan christ church 

                   本日の説教より 

2017年7月2日
「主は私たちのために貧しくなられた」<< Ⅱコリント8章1~15節 >>

◎本日の聖書でパウロが訴えているのはエルサレム教会への「献金」です。彼は「豊かな人」が「貧しい人」に施すようにと命じているのでしょうか?マケドニアの教会もエルサレムの教会も「激しい試練」(2節)を受けていたにもかかわらず支え合うことで、祝福されたと言うのです。
◎貧しいから分かち合えない、と言うのではなく貧しいからこそその痛みを知っているから、分かち合える。あのレプタ銅貨2枚を献げたやもめのように、「極度の貧しさがあふれ出」ることに真の献金の意義があるのです。
◎さてそれはどこから来るのでしょうか。マザーテレサは「死を待つ人の家」の活動を通して、献金を申し出る大金持ちを断って「あなたの身の回りの貧しい人をまず助けなさい」と勧めるとの事。それこそが慈善の業なのだと。
◎「慈善の業」(4,6,7節)と訳されている語は、原語ではカリス(=恵み)という言葉です。慈善の業も献金も強いられてしている限り、それは単なる苦痛でしかありません。ひょっとしたら名誉欲に近づいているのかも知れません。しかし真の「慈善の業」とは「恵み(カリス)」になるのです。
◎その根拠とは何かと言うと、主イエスがこの世界に「奉仕」(4節)するために人間の姿を取られた謙遜さから来ます。私たちの罪を赦すために、十字架の死に至るまで徹底的に従順であられたお姿(フィリピ2:6~7) を通して、「奉仕」の真のあり方を学び、私たちは奉仕(献金)を通して、お返しする(献金)ことで恵みに至ることができるのです。



2017年7月9日
「非常に好意を持たれて」 << 使徒言行録4章32~37節 >>

◎ここには理想的な福祉的共同体の姿が描かれています。誰も自分の所有物の主張をしない。果たしてそんなすばらしい状態が聖書の世界とはいえ、本当にあったのだろうかと疑問に思うかも知れません。そして当然の事ながら、どうしてその状態が長続きしなかったのかと。
◎さてバルナバという人物に言及されているのは何故でしょうか?バルナバはキプロス島出身のレビ族とされています。レビ族は律法により本来は神殿に仕えることを専門とする祭司の家系なので、ユダヤでは土地、建物などの財産を持つことが禁止されていますが、キプロス島ではそのことが可能となっていたのでしょう。しかし、彼はレビ人としての原則を守り抜いたと考えられています。
◎そのことで彼の仲間である多くの祭司たちも信仰に入ったことが報告されています(使徒6:7)。ルカは使徒言行録とルカ福音書で非常に多くの箇所でお金にまつわる事柄を報告しています。それは「あなたの富のあるところにあなたの心もある」(マタイ6:21)ことを我々に教えるためではないかとも思われます。(例:「善いサマリア人」)
◎バルナバはパウロと伝道旅行を共にしながら彼の働きを助けます。時にはパウロと意見が対立することもありましたが、最後までパウロの最も良き理解者でした。バルナバが居なければパウロは世に出ることができなかったかとも言えます。そのバルナバが真っ先に進んで、自らと自らの財産を捧げた記事は人々に励ましを与えたのです。



2017年7月16日
「願いと祈りと執り成しと感謝」<< Ⅰテモテ2章1~8節 >>

◎パウロにとってテモテの存在はひと言では表現できないほどの人物です。彼はパウロの手紙の半数以上で「わたしの協力者」として紹介されているばかりでなく、「兄弟テモテ」として、また「愛する子」としてパウロに付き従い、パウロと「同じ思いを抱いて」(フィリピ2:20)活動しました。
◎この書簡でも「信仰によるまことの子」(1:2)と呼びかけられています。彼の最後はパウロと共にローマで囚われの身となっていたことが推測されます。(フィリピ1:1等)このような二人が今、離ればなれになって活動している若きテモテ(4:12)に向けて、深い愛情に満ちた懇切丁寧な牧会上のアドバイスを送っているのがこの書簡です。
◎今日の箇所は「祈り」についての指導です。ここで注目すべきは「すべての人のために」という語です。パウロはその中に「王たちや高官のためにも祈りなさい」と勧めますが、当時の支配者たち、すなわちパウロを迫害していたユダヤ教の指導者やローマ当局者たちのことを念頭に置いています。 私たちは政治の指導者は言うに及ばず、自分を憎む人たち、迫害する人たちのために祈るでしょうか?
◎愛敵の教え(マタイ5:38以下)を出すまでもなく、その根拠は「すべての人の贖いとしてご自身を献げられた」(6節)お方、十字架の主イエスの存在が前提されます。だから、差別も隔てもなく、「すべての人」のために、願いと執り成しと感謝を捧げることが求められます。そしてそれはパウロの宣教者、使徒として立てられた根拠でもあります。



2017年7月23日
「主の言葉はますます勢いよく」<< 使徒言行録19章11~21節>>

◎パウロの生涯の中でエフェソは2年以上(10節)にわたって伝道に従事した場所ですが、順調な歩みとともに反対者にも出逢った(9節)ことが知られています。パウロはそのような逆境の中にあっても「1,2コリント書」「ガラテヤ書」「フィリピ書」という大書簡を書いているのです。
◎本日の箇所ではそんな反対者の中でもユダヤ人の巡回祈祷者たちの働きを、著者ルカは最大限の皮肉を込めて紹介しています。彼らはパウロにあやかろうとして、主イエスの名を語って活動をしようとしますが、所詮、それは形だけを借りた猿まねでしかありませんでした。悪霊どもの逆襲を受けてコテンパンにやっつけられてしまいます。
◎そしてそのことはあっという間に、その地方に知れ渡ります。そのことを通して起きたことは、「人々は皆恐れを抱き」、「主イエスの名が大いに崇められるようになった」ことでした。それに加えて「大勢の人たちの悪行の告白」と魔術師たちの膨大な書物の廃棄が起こります。実は、こちらの奇蹟のほうにこそ私たちは目をとめたいのです。
◎ここで私たちも自らの信仰のあり方を猿まねで済まそうとしていないか、問われています。それは何もパウロが行った偉大な奇蹟を真似ようとする事ではなく、私たちが「からし種一粒ほどの信仰」を日々、誠実に守り通して行くこと(主日礼拝)です。イエスの名もパウロのことも悪霊たちはすでにその名を知って恐れています。だから私たちはどこに行っても反対者を恐れる必要はないのです。



2017年7月30日
「私たちを憐れみの器として」<< ローマ書 9章19~29節>>

◎パウロはここで「器」という語を頻繁に使います。「器」という語で私たちはすぐにパウロの「土の器」(Ⅱコリント4:7)
を思い起こします。私たちは金の器ではなく、土の塊に過ぎない。これは土(アダマ)の塵で創造されたという「創世記」の記述から由来している事実です(2:7)。
◎ここで最も大切なことはその「土の器」に過ぎない私たちに神さまは「命の息(=霊)」を吹き入れられた事により、私たちは「生きる者」とされたことです。それは神さまから賜物と共に「神の似姿」として生きる尊い意味が与えられているということでもありました(「創世記」2:27)。
◎私たちは自らの器を罪に汚れるものへと変えてしまった。パウロはそのような我々を「怒りの器」(22節)と表現し、罪によって滅びに定められた存在として表現します。それにも関わらず創り主に向かって「どうしてこのように造ったのか」と口答えする愚かな存在でもあるのです。
◎しかし、神さまは「寛大な心で耐え忍ばれた」という事実を心から感謝して受け止めましょう。神さまは独り子イエスをこの世に遣わすことによって、全人類に対する愛をお示しになられました。滅びに定められている「土の器」に過ぎない私たちを「憐れみの器」へと生まれ変わらせて下さったのです。
◎全く価値のない土塊の器が主イエスの十字架の血潮によってかけがえのない器と変えられた。生きる価値のある者とされたことに感謝して歩み続けましょう。