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阪南キリスト教会 / hannan christ church 

                   本日の説教より 

2018年5月6日
「悲しみから喜びへ」<<ヨハネ福音書16章16~24節>

◎先週の「主イエスはぶどうの木」説教で語ったことの前提にヨハネ教会の二つの敵(迫害者)について言及しました。 ユダヤ人とローマ帝国です。 16章の冒頭は「これらのことを話したのは」と、特にユダヤ人からの迫害が一層激しさを増すことをさらに予告した言葉で始められています。
◎そのためには「つながり合う」ということ、主イエスのぶどうの木と私たち信徒の枝という関係、即ち教会と教会員の関係が大切であると言いました。 しかしそれは一つの要素に過ぎません。 もちろん最も大切な要素ではありますが、「つながりあう」という人間の努力に焦点を合わせたのでは、それはあまりにも大きな限界に遭います。
◎本日はさらに強力な助っ人がいるというのです。 しかしその助っ人は主イエスが居なくなった時に送られて来るというのです。 両方同時にというワケではありません。 ここで、「しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなる」という弟子たちにとっては、非常に意味不明な主イエスの言葉が問題にされます。 今まで一緒にいたのにどうして居なくなるのか? いつかは死ぬことは分かっていてもまだだろう、程度の感覚はあったから当然です。
◎主イエスはここで敢えて「十字架(上の死)」という言葉を使わずに、自らの贖罪の死に言及します。 十字架は悲しいことではあるけれども、しかしそれは一時的な悲しみに過ぎない。 それは復活→昇天を通って、助け主である聖霊(ヨハネでは弁護者)が私たちの願いを叶えるのです
 


2018年5月13日
「わたしの喜びを満ちあふれさせる」
<<ヨハネ福音書17章1~13節>

◎「母の日」は教会暦に基づくものではありませんが、キリスト教会から始まったことは確かです。 神を「父よ」と呼ばれた主イエスの言葉から私たちは神の父性像(峻厳)を思い描きますが、本来、神に性別はありませんので、神の母性像(慈愛)にも思いを馳せる時として良いでしょう。
◎ヨハネ福音書14章から16章までの主イエスの独白(モノローグ)は全体として弟子たちへの「訣別説教」と呼ばれています。 迫害を受けているヨハネ教会が主イエスの励ましによって生かされて行く姿が想定されています。16章で、別れが強調されて十字架の死と復活が暗示されたのですが、それも私たちの罪の贖いのためであり、聖霊なる助け主によって生かされる希望が示されました。
◎本日の17章は主イエスの祈りです。 ここでは主イエスが父に約束の栄光(これは十字架と復活、昇天)を与えてくださいという祈りと共に、弟子たちのための長い執り成しの祈りがなされます。 ここには弟子たちに対する主イエスの限りない愛が満ちあふれています。世に残されて行く弟子たちに対して、主イエスが彼らが世の迫害や誘惑から守られるようにと真摯に祈られているからです。
◎私たちは「主の祈り」でも教えられたように、神の御心を求める祈りから始めて、執り成しをして行く。 この祈りの姿に学んで行きたいものです。 主が「わたしの喜び」(13節)と言われたものは、祈りに応えて助け主が来ることで迫害下の主を信じる人たちが守られることなのです。



2018年5月20日
「聖霊、来たれり 」<<使徒言行録 2章1~13節>>

◎五十を表すラテン語「ペンテコステ」はイースターから七週を数え終わる日を指し、ユダヤ教では七週祭=刈入祭を指す日となっています。 著者ルカは福音書の最後(24章)の復活から昇天に至る記事で、天を仰いで呆然としている弟子たちに対して、聖霊の賦与を通して地上に目を向けるようにと促していると見ることもできます。
◎ペンテコステを「教会の誕生」の出来事として見ることは決して間違いではありませんが、主イエスと弟子たちの交わりは教会ではなかったのか?ペンテコステは聖霊が与えられることによって「宣教する教会」が与えられたの
だと考えるのが、より正確な見方と言って良いでしょう。
◎それは「突然」のしかも超自然的な出来事として描かれているように見えますが、そこには見逃してはならない前提があります。「一同が一つになって集まって」(2:1)いたことです。十二使徒も含めて120人ほどの弟子たちとされています(1:15)から、相当に大きな場所(神殿?)であったと考えられます。 一致して一箇所に集まっていた!
◎私たちひとりびとりは誠に弱い存在、復活の主を見ても疑心暗鬼がぬぐえない存在です。 そのような者たちが自らの力で宣教などできる筈もありません。 ただ主の聖霊を賜物をいただくことにより可能となります。 私たちは教会(現在は分裂しています)を通して、理解と一致の言語を願いつつ、また祈りを通して私たちを宣教する「教会」へと駆り立ててくださる聖霊のワザを待ち望むのです。



2018年5月27日
「キリストと共同の相続人 」
<<ローマ 8章12~17節>>

◎聖霊降臨日に続く(日)を三位一体主日と呼びます。父なる神が子なる神=イエス・キリストをこの世に派遣し、その後、父なる神と御子イエスが聖霊を派遣すること(ペンテコステ)で、三位一体の神が私たちの救いの業を完成させたことを代々の教会が心に刻むために他なりません。
◎「父と子と聖霊の名によって」(マタイ28:19) と三者が一体のものとして現れるのはマタイのみですが、教会が戦いとって来た真理に私たちも固く立って、この世に派遣されて行きます。それは教会が宣教の業のために立てられていると言うことでもあります。
◎「ロマ書」はパウロの最晩年の手紙ですが、理解のポイントとして彼は未知の信徒に手紙を書いている事です。これは他の書簡(ガラテヤ書、コリント書等)が既知の教会の具体的な問題に立ち入って論じている事とは異なります。
パウロは当時の大都市ローマで異邦人伝道(=世界宣教)に着手することが夢でした。 ですから自己紹介と共にキリスト教の基本教理を述べることに主眼を置きました。
◎本日の箇所は2点。 自分がなすべき事(倫理)、そして神が父として(アバ)聖霊を通してなして下さる事を待ち望む事(信仰)。 前者は私たちが「肉」に従って生きている義務から私たちを解放させてくれます。 後者は私たちがキリストと共に苦しむことで、キリストの復活(の喜び)に与ることができるという神学が表明されています。 ここに万事を益となさる神への信仰を告白できるのです。