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                 2018年7月1日 
                「神は近くに、それとも遠くにおられる?」<<エレミヤ書23章23~32節>> 
                 
                 ◎「主は言われる、わたしはただ近くの神であって、遠くの神ではないのであ 
                るか。」(23節、口語訳聖書)ここで神さまとの距離感とは何でしょうか? 私た 
                ちの感覚では神さまはどこにでもおられます。 しかし、神さまの恵みを感じる 
                ことができる時、またなかなかできない時、それはあるでしょう。 
                 ◎「・・・と主は言われる」という言葉が頻繁に繰り返されます(直訳=主の託 
                宣)。これは預言者の決まり文句です。 すなわち(私の預言の)言葉の源泉は 
                「主」からなのであって、人間からではないということを強調しています。 そ 
                れは偽預言者たちが自分たち人間の願望に基づいて、「舌先だけで」(31節)預言 
                を語り続けている預言者たちがあまりにも多すぎることに対抗するためでもあり 
                ました。 
                 ◎偽預言者たちは何よりもまず「自分の心が欺くままに預言」(26節)します。  
                さらに「わが民がわたしの名を忘れるように仕向け」(27節)ようとします。 彼 
                らにとっては、神さまはお手軽な近くの便利屋のような神さまで、遠くから自分 
                たちを厳しく見守る審判の神さまとは無関係のようです。 
                 ◎これらの偽預言者たちに対するエレミヤの嘆きはあまりにも大きく激しいも 
                のです。 偽預言者たちのことばを「もみ殻」(28節)に過ぎない、と断罪します。 
                それに対して「わたしの言葉は・・岩を打ち砕く槌のようではないか」(29節)と。 
                 ◎私たちには本物と偽物を識別できる目を持たねばなりません。 偽物は巧妙に 
                私たちの魂を揺さぶりますが、真実の主の言葉は私たちの魂を活かし、祝福する 
                のです。 
                
                
                
                 
                 
                 
                 
                2018年7月8日 
                「ソロモンの栄華と知恵のゆくえ」 <<列王記上 10章1~13節>> 
                 
                ◎本日の聖書の箇所をひと言で言うならば「ソロモン王(イスラエル王国)の黄金期」が描かれていることです。ソロモン王は兄弟アドニヤと王位を巡っての権力争い(王上1~2章)に勝利しますが、これは先王ダビデへの神さまからの約束でもありました。
                アドニヤはその傲慢の故に滅ぼされたのです。 ソロモン王は権力を確立し、父ダビデ王が成し遂げられなかった神殿建築を完成させます。 
                ◎その時のソロモン王の願いは「民を正しく裁き・・聞き分ける心をお与えください」(王上3:9)というものでした。ソロモン王の謙虚な祈りは応えられます。
                彼はおよそ考えられる限りの富、権力と共に知恵を与えられます。 知恵とは単なる知識(情報)とは違います。 神から来るものです。 
                ◎シェバの女王は当時、知られている限り、最も東方から(=地の果て)やって来ますが、最初は半信半疑だった彼女の心は圧倒的な現実を前に打ち砕かれ、ソロモン王の栄耀栄華の前にひれ伏す事になります。 聖書の中での彼女の役割はソロモン王の偉大さを証明することにあります。 
                ◎聖書は単なるソロモン王の成功物語を書きたかったのでしょうか? 決してそうではありません。 次の11章の冒頭の小見出しには「ソロモン王の背信とその結果」とあります。 彼は数多くの王妃と側室を持つだけではなく、異教の神々にも従って行くのです。 イスラエルはその結果、分裂して行きます。 人は誰もが「この花の一つほどにも着飾って」いない現実と共に主の恵みを見るべきなのです。 
                 
                 
                 
                2018年7月15日 
                「恵みを無駄にしてはいけない」 <<Ⅱコリント6章1~10節>> 
                 
                 ◎パウロは「神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません」(1節)と勧告 
                します。私たちは「恵みの無駄遣い」をしていないかと自らに問いかけてみまし 
                ょう。恵みとは何でしょうか。それは手で触ったり掴んだりできるものではあり 
                ませんが、見えないモノは世界にたくさん存在します。  
                 ◎"Amazing Grace"という有名な讃美歌を書いたジョン・ニュートン牧師は船長 
                として奴隷貿易に従事していました。 嵐の中から奇跡的な助け出されたあと牧 
                師になる勉強を続け、鬱病とも闘いながら最後は奴隷廃止の運動をして行くこと 
                になります。 一人の人生の転換に劇的に働かれた神さまの働きを「驚くべき恵 
                み」と彼は呼びました。 
                 ◎震災が続きました。 被災した人たちが「こんな不幸がどうして私に?」と考 
                えるのは無理からぬことです。家族や家、財産さらには仕事までも失ってしまっ 
                た。 どうしようもない状況と出遭う時、人はやり場のない怒りをどこにぶつけ 
                たら良いのでしょうか。 そんな時、それを神の恵みなどと到底言うことはでき 
                ません。冒涜にすら思えます。 
                 ◎しかし、そのような時にも「神さまの恵み」は見えない地下水のように流れ 
                ています。 例えば、震災ボランティアを行うような善意の人々。 クリスチャン 
                であるなしに関わらず、人々の魂を潤して行く人たちの存在があります。 もち 
                ろん教会はそのような荒れ野の泉となりたいものです。 私たちの人生の中で地 
                下水のように流れている「神さまの恵み」の泉に生かされる者でありたいのです。 
                 
                 
                 
                2018年7月22日 
                「私たちはキリストの体です」 <<Ⅰコリント12章14~26節>> 
                 
                 ◎私たちの身体の秩序のどれひとつをとっても、これほど複雑なシステムを備 
                えた存在は神さまの創造のワザを抜きにしててはあり得ない、としか考えられま 
                せん。「体」を人間が模倣して作り出すことなど絶対に、そして永遠に不可能 
                です。 教会がそのように「キリストの体」に例えられている(27節)ということ 
                は逆にその不可能なことを主イエスが可能にしているという事を物語っています。 
                 ◎12章前半のテーマは「聖霊の賜物」です。 そして次章(13章)のテーマは 
                「愛」です。 このことは何を指し示しているでしょうか。 「聖霊の賜物」と 
                「愛(の実践)」の間に教会が置かれているのです。 それは「聖霊の賜物」を正 
                しく受け取り、そしてそれを適切に「愛」のワザとして実践して行くために、教 
                会が存在しているということです。  
                 ◎例えば「知識(情報)」は体験の中で活かされてこそ本物の知識(知性と呼ぶ事 
                もできる)となります。 「愛」のワザを本物として行くためには、その力の源と 
                しての聖霊とそして、それを実践して行く主体としての教会が必要です。 
                 ◎ここで聖霊の賜物の多様性が言われています。 それに伴ってその働きの多様 
                性が語られます。 目や耳や口・・、それぞれが異なった働きをしているけれど 
                も、そのことにおいて貴賤の区別はありません。 機能の違いだけです。 そして 
                その機能はすべて尊いのです。 それらが上手く互いに尊重し合って働く時に、 
                人間の体がそうであるように教会も有効に神さまの働きを全うして行けるのです。 
                 
                
                 
                 
                 
                 2018年7月29日 
                「主があなたに求めておられることは何か」<<申命記10章12~11章1節>> 
                 
                ◎「申命記」は主なる神さまとの契約の書です。 その目的は「あなたたちは命を得、その数は増え・・・土地に入って」ためです。 荒れ野の40年の旅は試練でもあったけど、主なる神の豊かな恵み(マナやうずら)を体験する旅でもありました。 それを通して「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」(8:4)ことを学ぶことができたからです。 しかし人間は忘れっぽい。 
                 ◎人間は恵みから離れてすぐに、かたくなになり罪に陥ってしまいます。 そして主を怒らせてしまうのです。 ここに主の恵みとそれに頼らないで偶像礼拝に走ってしまう人間の愚かさと罪深さが描かれています(9章)。モーセはそのことの故に「二枚の契約の板を投げつけ、・・・砕いた」(9:17)のです。モーセは民を代表して「四十日四十夜、主の御前にひれ伏し」(9:25)そして悔い改めの祈りを捧げます(9:26以下)。 このモーセの姿に民の罪を代表して執り成す主イエスの姿を見る事ができます。 
                 ◎主はその祈りに応えられます。 契約の二枚の板が再び授けられるのです(10:4)。滅ぼされて当然の民が赦されて生きる。これが契約の民の憐れみと恵みに生きる姿です。 
                 ◎本日の箇所で強調されるのは「あなたの神、主」と何度も繰り返されるお方の契約と命令です。 そしてその契約を守ることによって得られる豊かな祝福です。 御子である主イエスはその祝福を自らの十字架の死の贖いによって私たちのために勝ち取って下さったのです。 
                
                
                
                
                 
                 
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