本文へスキップ

日本フリーメソジスト教団阪南キリスト教会のホームページへようこそ

阪南キリスト教会 / hannan christ church 



                   本日の説教より 

2018年8月5日
「わたしの結ぶ平和の契約」<<イザヤ書54章1~10節>>

 ◎毎年8月第1主日は広島を覚え、「平和主日」として守っています。 核兵器だけでなく広く戦争そのものに強く反対の意志を表して行く必要があります。人間は何よりも神との平和(シャローム)を受ける事から始めなければ、他者とも世界とも和らぐことはできません。 アラブ世界ではシャロームは挨拶語として
用いられているのです。
 ◎エレミヤ書に「彼らは、わが民の破滅を手軽に治療して 平和がないのに、『平和、平和』と言う。」(6:14)という言葉があります。 単に「平和」をもてあそぶだけの預言者らが批判されています。 「平和」は積極的に作り出して行くものでもありますが、その前に神さまとの和解がなければいけません。
 ◎本日のイザヤ書は、喜びと祝福に満ちています。 今まで不可能だと思われていたことが可能となって行く。 捕囚の苦しみにうち沈んでいた民に対して新しい契約が語られます。 「不妊の女」は従来、呪いの対象でしかなかった。それは捕囚の民と言って良いでしょう。 その彼らが今や、多産の対象となる。 それに
加えて荒れ果てた都も回復する。それは神さまの介入によって始めて成り立つ事です。
 ◎主なる神はその大いなる憐れみをもって「わずかの間、わたしはあなたを捨てた」(7節)とされるが、それは主の民を「引き寄せる」ためであったと。 十字架の主イエスも神から見捨てられたが、それは主の民を引き寄せるためです。神は贖い主で、その「平和の契約が揺らぐことはない」のです。




2018年8月12日
「へりくだって神と共に歩め」<<ミカ書6章1~8節>>

◎ミカという預言者は日本では女性の名前に聞こえますが、「主のような人は誰か?」という名前自体が問いかけになっています。 皮肉な名前と言っても良いでしょう。 ミカはイザヤと同じく前7世紀に活躍していますが、それはどのような時代かと言うと、大国アッシリアの前に風前の灯火となってしまうような危機の時代でした。
◎このような絶対絶命の時代に指導者は隣国と同盟を結んだり、
エジプトの軍隊に頼って真に神さまを信頼することはありませんでした。 それどころか偶像を作って拝み、あまつさえ自分の長子を捧げるようなこと(7節)すらあったのです。 神さまはこのような民に対して、裁判の座を設ける形で問いかけ(告発という強い語)られました。
◎「告発」という手段で民の目を覚まさせようとされるのですが、
そこで回顧することはイスラエルの歴史(特に出エジプトと荒野の旅)を通していかに神さまは恵み深く振る舞われたか、という点です。 バラク王とバラムの託宣については民数記22~24章に記されています。 背信のイスラエル、主の恵みを簡単に忘れてしまう民に対してどこまでも憐れみ深くあるお方だと言うことを示されます。
◎「何をもって主の前に出るべきか」と自問する民に対して、神は「多くの犠牲」でも「長子の命」でもなく、ただ「
正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩め」 と諭されます。 これが神さまの法廷における
判決です。 大きな罪科を担わせずに、ただ神の愛を受け止めて生きるのです。




2018年8月19日
「ぶどう畑に捧げる愛の歌」<<イザヤ書 5章1~7節>>

 ◎本日の聖書の繋がりから言うと3章から4章1節が背景にあります。 4章冒 頭には戦争で疲弊した国の中では7人の女性が1人の男を奪い合うという社会的 混乱が起きていたことが報告されています。問題は何故このような事態に至った のかというその原因です。
 ◎「ぶどう畑の歌」はイザヤ書で幾度か言及されます。 伝統的に秋の収穫祭で 歌われていた農業歌とされ(→27章)、イザヤはぶどう園とぶどうを育てる農家 の関係を神さまとイスラエルの関係に例えます。そこで何故このような関係に至 ったのかに深く思いを馳せねばなりません。
 ◎一人の農夫が手塩にかけて耕し育てたぶどう畑が今や収穫を迎えている。 豊 作を期待して良い。 にもかかわらずその収穫は「実ったのは酸っぱいぶどうで あった」(2節)と言うのです。 農夫の怒りはどこへ向かうでしょうか?→6節 「わたしはこれを見捨てる」と言うのです。農夫の忠実な勤労に対して、畑のど
こに落ち度があったのでしょうか。
 ◎そこには「富める者の横暴」(8節以下)があり、律法をないがしろにする民 がいました。 7節は預言者が語呂合わせを使って最大限の皮肉を語ります。 し かし、イザヤの心情はいかばかりだったでしょうか。 正義が行われない状況が ある。 主はそのような民に審きをなされる。 「彼らが万軍の主の教えを拒み/ イスラエルの聖なる方の言葉を侮ったからだ」(→24節)。 しかし、完全に滅ぼ されるのではない。 救いの芽は備えられているのです(4:2, 9:1~)。



2018年8月26日
「お前を見捨てることができようか」<<ホセア書 11章1~11節>>

◎ミカ書の告発、そして先週
のイザヤ書の「ぶどう畑の例え」を通して、神と人間との関係がいかに人間の側 の不実によって壊されて来たか、そしてそれが人間の愚かさ、偶像崇拝という罪 から来ていたかが示されて来ました。 あくまでもこれらは南ユダ王国の立場か ら見たものです。 しかし、彼らと同時代のホセア書はまさにアッシリアによって滅ぼされた北イスラエルの内側から見ているのです。
◎ホセアは神と人間
との関係についてイザヤの「ぶどう畑の例え」のような、のどかで文学的な比喩
を使いません。もっとえげつない方法を用います。 ホセアは神から命じられた 自らの結婚生活を通して語るのです。 彼は淫行の女ゴメルを娶ります。 おそら く彼の実体験に基づいていたと考えられるのですが、夫婦の関係で神と人との関係を語るのです。 姦淫する妻とそれでも愛し抜く夫として!
◎この背景には
異教的バアル礼拝に堕していた北イスラエルの宗教と王権の横暴があったと考え
られます。 預言者エリヤや、ホセアより少し前のアモスらはこれに対抗して活 動します。 社会的正義が失われてしまった繁栄に果たして意味があるのか、と。  やがて北イスラエルは民族の滅亡と捕囚という最後を迎えることになります。
◎それにも関わらず、「お前を見捨てることができようか」、「憐れみに胸 を焼かれる」(8節)神さまがおられるのです。 この神さまは人間の感情に支配さ れるのではなく、ただ一方的に愛を以て人に臨み、導かれる神さまなのです。