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阪南キリスト教会 / hannan christ church 



                   本日の説教より 

2018年10月7日
「神に倣う者として生きる」<<エフェソ書4章25~5章5節>>
 
◎エフェソ書は前半(1~3章)の教え(教理)の部分と後半(
4~6章)の実践部 分とに分けられます。 後半部分では、主の囚人として(3:1,4:1)パウロは人々に キリスト者として歩むべき道を具体的にアドバイスします。 それは、単なる道 徳律と考えるべきではありません。 もちろん律法に基づいている側面があるの は否めませんが、それらとは異なった全く新しい生き方をパウロは示そうとしま す。
 ◎そこでは個人的な立派な生き方と言うよりも教会としての生き方が示される のです。 何故なら私たちはキリストの体の一部分だからです。 上からの力で道 徳を強制しようとしても決して成功しません。 強いられてではなく、作り上げ て行くものでなければなりません。 パウロは人間の体を例に取って、教会を体 として提示します。
 ◎人間の体は有機的に機能します。 もちろん生理学的には脳が命令していると 言えばそれまでです。 通常は分裂して動くことはあり得ません。 教会的にこの 脳の役割を果たしているのは愛であり、しかもキリストの愛に突き動かされたも のです。 そして聖霊がその動きを保証します。
 ◎今日の箇所は否定命令と肯定命令に分けて考えると分かり易いと言えます。 「~してはなりません」はむしろ律法に基づく古い教えです。 もちろんだから と言ってないがしろにして良いものではありません。 むしろ「~~しなさい」で命じられる教え=真実を語る(25節)、愛によって歩む(5:2)、感謝(5:4)、これ らがキリストの律法なのです。


2018年10月14日
「信仰によって生きる」<<ヘブライ書11章23~28節>>

 ◎ヘブライ書の中で「信仰の章」として知られるこの11章はその冒頭で信仰を「信仰とは、 望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」と定義します。 この章全体はその定義を証明するために、旧約聖書に出て来る人物を登場させ、その生涯を簡潔に信仰者として述べます。
 ◎信仰者の祖アブラハムへの言及が相当量に上る(8~19節)のは当然ですが、ヘブライ書の著者は彼の復活信仰に言及しているのは注目すべきです(→19節)。 信仰が死者からの復活の視点で見られているのが新約の特徴です。
 ◎その次に分量が割かれているのが本日の箇所のモーセです。ヘブライ書の著者は「信仰によって」という言葉を5回使用してでモーセの信仰者としての生涯を評価します。エジプト脱出と荒野の生活を描いたモーセの生涯のハイライトは言うまでもなく『出エジプト記』に記されています。 そこには英雄(ヒーロー)としてのモーセの姿が満ちあふれ、イスラエルの救済者としてそびえ立っているようにも見受けられます。 ある意味、それは真実です。
 ◎しかしヘブライ書の著者はそのモーセの生涯にひとつの新たな視点を導入します。 「キリストのゆえに」(→26節)です。 モーセとキリストの繋がりに怪訝な思いを抱くのは当然かも知れません。 神さまの計画ではつながっているのです! キリストの十字架の贖いの恵みを知っている私たち新約の民は「信仰によって」神のご計画の全貌を見ることができるのです。 これこそ信仰の祝福なのです。



2018年10月21日
「キリストのおかげで」<<ローマの信徒への手紙5章1~5節>>
  阪南キリスト教会創70周年礼拝



2018年10月28日
「お前は何もので、何を知っているのか?<<ヨブ記 38章1~18節>>

 ◎私たちには耳慣れない「経綸」とされた語は(神の)「目的」、「示唆」が原意で、新改訳聖書では『摂理』と訳されています。 「知識もないのに、・・・神の経綸を暗くする」(2節)は私たちの無知が前提にあるからです。 問題は私たちのその無知を私たちが知らないままである、という事です。
 ◎ヨブは自らに襲いかかった災難・不幸を慰めるべくやって来た友人たちに対して、自らは神の経綸の中にあることを主張して反論します。 何の罪もないのに呻吟するヨブが最後に頼りとするのが神の経綸です。 しかし、神はここまで長い沈黙を守り続けます。 そのことがなお一層、ヨブを苦しめるのです。 ヨブは人間と神の断絶に気付くに至った時に(→「人の知恵はすべて顧みるに値しない。」37:24)、それに応えるかのように、ついに神が現れます。
 ◎39章の終わりに至るまでの神の言葉は、聖書の中でも最も長い神の言葉とされています。 ヨブはどれほど神のこの応答を待ち望んでいたことでしょう。その言葉がどれほど厳しい言葉であったとしても、ヨブにとっては神の現れそのものが恵みと言っても良かったのです。
 ◎神の応えはヨブと3人の友人たちとの間で交わされて来た因果応報的な議論に決着をつけようとするものではありません。 むしろ神はヨブに問いかけ、創造の業に言及しつつ、人間の果たせた役割は何かと語ります。 もちろん何もあるはずがありません。 神の創造の秩序に畏怖を抱き、神の慈愛の前にへりくだるのが人の役割だからです。