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阪南キリスト教会 / hannan christ church 



                   本日の説教より 

2019年5月5日
「再び、心の目を開かれる主」
<<ルカ福音書24章13~35節>>

 ◎復活と顕現という出来事に接した弟子たちは喜びと共に、大きな不安を抱い たのも事実です。 恐れおののいた弟子たちが「亡霊を見ているのだと思った」 のも無理からぬことでした。 そのような疑惑を感じて戸惑う弟子たちに対して 主イエスは「まさしくわたしだ」と語りかけられるのです。
 ◎人間は自分の知識や経験(理性)を越えた存在を信じることなど簡単にできる ことではありません。 エマオ途上の弟子たちの目が閉ざされていたのは不信が 物事の本質を見えなくした事については先週学びました。 しかし、人間の心は 頑なで脆い事も事実です。 疑問がきれいさっぱり解消して強固な信仰を持つ等、 簡単にあり得ません。
 ◎「どうして心に疑いを起こすのか」と主イエスは私たちの不信仰を責められ つつも、その頑なさを溶かして行かれるのも主ご自身でした。 主イエス自ら(!) 「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい」と近づ
いて来られるのです。 私たちの不信をしっかりと見透かしておられ、その疑問 に優しくお応えになろうとされるのです。
 ◎弟子たちが「喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっている」時、今度は 「(焼いた魚を)取って、彼らの前で食べられた」のです。 ここには主イエスの ユーモアすら感じられないでしょうか。 私たちの不信を「食べる」というリア
リティで証明なさろうとするのです。 私たちもこの聖書の証言を信じるかどう か、 弟子たちと同じチャレンジを受けているのです。 信仰とはそのような飛躍 をすることなのです。
 



 
2019年5月12日
「私は命のパン」<<ヨハネ福音書6章34~40節>>

 ◎本日は19世紀にアメリカで発祥したとされる「母の日」を覚えて礼拝が守 られます。元々は戦争で傷つく父や息子たちを守るのが出発点でした。 創設者 のアン・ジャービス氏はそれが徐々に商業主義(カーネーション販売)に堕してし まった事を後悔したとも伝えられています。
 ◎神様を「天の父」と呼び慣わすのは、主イエスが「アバ、父よ」と呼ばれた ことに由来します。 神の形を受けている私たちは神の峻厳という父性と共に慈 愛という母性をも受け継いでいることを覚えたいと思います。
 ◎「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」とねだる弟子たちは私た ちの姿でもあります。 「いつも・・ください」ここに主イエスを自分たちの生 活の糧を得る便利屋のようにみなす愚かで傲慢な人間の姿があります。 主イエ
スにつき従ってさえいれば食べ物の心配はないと言える?
 ◎弟子たちの記憶には5千人に食べ物を分かち合われた奇蹟のことが頭から離 れていないのでしょう。 しかし、それは次元の異なる夢を見ているに過ぎませ ん。 そのような私たちに「わたしが命のパンである」と宣言されます。 そのパ ンは人々を飢えさせることも渇かせることもない。
 ◎もちろんそのパンは主イエスのもとに来て、信じることが条件となります。 私たちは生きる糧を得るために働くのは当然です。 しかし、その労働には神の 御心を行い、喜ばせるという目的があります。 それを忘れてしまう時、私たちは心が病んで貧しくなってしまうのです。
 


2019年5月19日
「わたしの喜びをあなたがたの内に」
<<ヨハネ福音書15章11~17節>>

 ◎「これらのこと」とあるのは主イエスが前段で有名な「ぶどうの木」の例えを用いて実を結ぶためには私たちが主イエスという「ぶどうの木」にしっかりと結び付く必要があると語られたことです。 結び付くとは何を以てか?それはただ信仰に拠るのですが、それをどのように証明するのかと言うと私たちが「実を結」んでいるかどうかです。
 ◎しかし私たちはどんな実を結んでいるのかと問われると本当に心もとない限りに思うばかりではないでしょうか? 「実を結ぶ」ということで、私たちは目に見える行為、善行を思い浮かべるのは無理もありません。 寄附をしたりボランティアをしたり・・・。 究極の行為として「友のために自分の命を捨てること」(13節)という言葉に直面するとただ畏怖の思いだけしか残らないのではないでしょうか?
 ◎確かにそれは「これ以上に大きな愛はない」事に全く異存はありません。 でも一度限りの人生でそんなチャンスはおそらく巡って来ることすら稀だと言って良いでしょう。主イエスはそのような大きな愛に身を献げることを勧めているのも確かでしょうが、「わたしの命じることをおこなう」ことの方に目を注いでみましょう。 何
よりも「互いに愛し合う」ことを主は求められました。簡単な事ではありません。
 ◎「互いに愛し合う」事が命令、律法ならばそれは窮屈なお題目に過ぎません。 しかしそこには主イエスの「わたしの喜び」が「あなたがたの喜び」へと変えられ、私たちの内に満ちあふれるのです。 信仰は愛の応答でもあるのです。




2019年5月26日
「百人隊長の信仰と癒やし」
<<ルカ福音書7章1~10節>>

 ◎その名も知られていない百人隊長(口語訳=百卒長)のその部下への思いやりと信仰の物語です。注意したいのは彼らはローマの兵士、すなわち「異邦人」でありつつ、主イエスへの信仰を持っていたということです。 百人隊長はその名の通り、百人をたばねますから数人の信頼できる部下を持って部隊を統率します。
◎そして彼の言葉は生きた力を現実に発揮します。「『行け』と言えば・・・」とありますが、これは『死ね』と言えばと置き換えることができます。彼は言葉に力があるということを知っています。 しかし彼自身は自分の言葉で
は、部下の病気を癒やすことはできないと自分の限界も知っていました。彼はローマの権威に裏付けられた言葉は使えても、人間を癒やす言葉は使うことはできなかったのです。
  ◎しかし彼は主イエスの力を知っています。 異邦人である自分が直接行くのははばかられると謙遜し、ユダヤ人の長老たちを遣わします。 彼はユダヤ人のために会堂を建てるほどの篤志家でもあったからです。 ユダヤ人の長老たちは喜んで出かけて、主イエスに懇願します。
   ◎ここで不思議なことに百人隊長は思い直します。 わざわざ主イエスに来ていただくには及ばない。 言葉だけで充分だと。 自分の権威はローマの権威に基づいているけれども、本当の権威を持つお方なら言葉だけで充分だと考え直したのです。 御言葉に信頼するとは主の言葉への絶対的信頼であり、主イエスはその信仰に応えられます。