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日本フリーメソジスト教団阪南キリスト教会のホームページへようこそ

阪南キリスト教会 / hannan christ church 



                   本日の説教より 

2019年6月2日
「神を愛し、人を愛し、弟子とせよ」<<マタイ福音書28章16~20節>>

 ◎福音書の最後が復活後の主イエスに出遭った人々の中でも、復活の力によって活かされた人々の出発が描かれているのは興味深いことです。 「大宣教命令」として知られる主イエスの派遣の言葉があってこそ、現在の教会が存在し成長して来ました。 これなしに教会は存在し得ません。
 ◎私どもFMの三つの標語があります。 それが今日の説教題になっています。英語で"Love God, Love People, Make Disciple"です。 これは私たち信仰者がなすべき信仰の順番を示します。 一番目は「神を愛する」こと、日々み言葉に聞き、祈りを捧げ、礼拝共同体(教会)に参加すること。そしてその事を通して「人を愛する」のです。 FMではウェスレーに従って貧しい人たちを愛することを重視して大切にして来ました。 社会に奉仕することは福音の大切な側面です。 特に福祉の働きに具現化されます。
 ◎三番目は「弟子作り」です。伝道と言い換えても良いのですが、もう少し突っ込んで世界宣教と呼びたいです。 マルコでは「全世界に」と書かれています。 言うまでもなく宣教者が派遣されてこそ、福音が伝わるのです。 しかし、そのためには私たちが「派遣」する群れでなくてはなりません。 受けるばかりではなく与えてこそ祝福を受けます。
 ◎世界宣教はやりたい人、できそうな人だけがする働きではありません。 キリスト者すべての責任でもあるのです。 あらためて神を愛すること、人を愛すること、そして遣わすこと、これらすべてが教会の働きとなるのです


2019年6月9日
「本当に理解し合えたの?」<<使徒言行録 2章1~13節>>

 ◎「ペンテコステ」とはラテン語の50を表す語です。 イースターから七週を数え終って最初の日となります。ルカは福音書の最後(24章)の復活から昇天に至る記事の中で、天を仰いで呆然としている弟子たちに対して、聖霊の賦与を通して地上に目を向けるようにと促し、福音を私たちにバトンタッチするべく「使徒言行録」を記したのです。
 ◎ペンテコステを「教会の誕生」の出来事として見ることは間違いではありませんが、主イエスと弟子たちの交わりも教会そのものでした。 教会とは建物ではありません。ペンテコステは聖霊が与えられることによって「宣教する教会」の誕生をルカは私たちに遺そうとしたのです。
 ◎それは「突然」のしかも超自然的な出来事として描かれているように見えますが、そこには見逃してはならない前提があります。「一同が一つになって集まって」(2:1)いたことです。十二使徒も含めて120人ほどの弟子たちとされています(1:15)から、相当に大きな場所であったと考えられます。 一致して一箇所に集まっていた事が前提です。
 ◎私たちひとりびとりは誠に弱い存在、復活の主を見ても疑心暗鬼がぬぐえない存在です。 そのような者たちが自らの力で宣教などできる筈もありません。ただ主の聖霊を賜物をいただくことにより可能となります。 私たちは教会(現在は分裂しています)を通して、理解と一致の言語を願いつつ、また祈りを通して私たちを宣教する「教会」へと駆り立ててくださる聖霊のワザを待ち望むのです。



2019年6月16日
「派遣される喜び」<<ルカ福音書10章17~24節>>

  ◎聖霊降臨日に続く(日)を三位一体主日としています。それは父なる神が子な る神=イエス・キリストをこの世に派遣し、その後、父なる神と御子イエスが聖 霊を派遣すること(ペンテコステ)で私たちの救いの業を教会を通して完成させた ことを私たちが心に刻み続けるために他なりません。
  ◎「父と子と聖霊の名によって」(マタイ28:19)と私たちが「使徒信条」で告 白する信仰は、信仰の先達たちが戦いとって来た真理でもあります。私たち、そ して教会はこの告白の上に固く立って、この世に派遣されて行くのです。
  ◎聖書はアブラハムを神が召し出しカナンの地へと派遣した事や、ヨセフが無 理矢理エジプトに連行された事。エジプトの地から民を救い出すためにモーセを 誕生させたこと等、 すべて「神の派遣」という形を取っています。
  ◎「七十二人は喜んで帰って来て」とあります。 誰でも成功報告をするのが 嬉しいのは当然です。 しかし、その成果があたかも自らの手柄であるかのよう に思い込むのは愚かなことです。 私たちも自分の才能や力を過信し出す時は、 目に見える方法論に頼ってしまいがちになっていませんか?宣教の成功とはあく までも主の力に拠ることを忘れてはなりません。 さもなくば教会は数の競い合 いとなってこの世の企業と同じになってしまいます。
  ◎主イエスが「聖霊によって喜びにあふれ」た姿を目にできるのは私たちにも 喜びです。 その喜びは必然的に讃美へと向かいます。「知恵ある者や賢い者」 にではなく「幼子のような者」にこそ示されたのは、ただへりくだって福音の喜 びを受け取る姿勢を学ぶためなのです。



2019年6月23日
「ペトロの説教に応える」
<<使途言行録2章36~47節>>

◎聖霊降臨の出来事に促されてペトロは説教を始めます(12節~)。 彼の説教は福音の神髄を示します(→「ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。」(22節))。 私たちは主イエスを十字架につけましたが神は彼を墓から甦らされた。それは預言者たちも語っていたことでした、と。
 ◎ペトロはこの説教を断固とした言葉で締めくくります。「だから、・・・はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」(36節)。 はっきり知ること、それはその言葉に応答することへと必然的に導かれます。 「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と。 こうあなたが問われたらどう応えるでしょうか。 私たちひとり一人が問われています。
 ◎何よりも「悔い改め」が求められます。 それは180度の方向転換です。 神に向き直るということです。 多くの宗教は行いを求めます。 しかし主が求めることはバプテスマです。 これは行いではなくしるしです。 それは古い自分に死に、そして神に新たにされて生きることです。「生きているのは、もはやわたしでは
ありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」(ガラテヤ2:20)と言える状態にまで成長して行くことです。
 ◎そこに奇跡が起こります。 しかし奇跡が起こらない現実に私たちは直面しています。 何故でしょうか? 私たちの力が足りないからでしょうか? 初代教会の信徒たちの信仰生活で言われていること、それは「教えを守り」、「交わり」をし、「パンを裂き(=聖餐)」そして「祈る」ことでした。すべて私たちが知っていることです。 奇跡は主が起こして下さいます。 私たちは聖書に倣いましょう。



2019年6月30日
「たとえ捕らえられても」
<<使徒言行録 4章1~14節>>

  ◎G20がこの住之江区で昨日まで開催されました。20もの国の代表者たちが、その国力の大小・強弱があるとはいえ自国の利益を第一に議論したことでしょう。 こういう場では言葉の説得力がものをいいます。 学問の有無に関わらず言葉の選び方も非常に大切になって来ます。
   ◎初代教会の躍動を示す物語を「使徒言行録」は私たちに伝えてくれます。その中でパウロのような学者はともかくペトロのようなガリラヤの漁師に過ぎない人物がその弁舌で多くの人の心を動かした事実は驚くべきことです。「無学な普通の人」が弁舌だけで人の人生を突き動かしてゆくのです。 それも半端な人
数ではありません。 五千人だというのです。 そんな力が人間に備わっているのでしょうか? もちろん神の助けがあってこその話です。
   ◎宗教指導者たちが彼らを拘束したのは自分たちの権威が脅威に晒されるのを不安に思ったからに他なりません。彼らが無学なガリラヤの漁師を裁く基準は「何の権威によって、だれの名によって」なのか、ということでした。 彼らは自分たちの権威が貶められることを怖れていたのです。彼らの肩書き(学歴や地
位)が何の価値もないものと判明すれば、たちまちの内に飯の食い上げとなるからです。
    ◎何の肩書きにも依存しないペトロとヨハネ(後のパウロもその肩書きを捨てた!)はただ「あのナザレ人イエス・キリストの名によるもの」として、そのお方の名前にのみ依存している事を大胆に宣言します。 この世のどんな権威も名誉も肩書き一時的です。 しかし「主イエス・キリスト」の名だけは永遠です。 その名によって生かされる人が世界のいたるところで、今も起こされ続けているのです