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阪南キリスト教会 / hannan christ church 



                   本日の説教より 

2019年10月6日
「大地も黙っていない」<<アモス書 8章1~ 8節>>

  ◎アモスという名前は「重荷」を意味します。 テコアと呼ばれる不毛の荒野でアモスは「家畜を飼い、イチジク桑を栽培する者」(7:14)として生活をしていました。 祭司でも預言者でもないので学問があったとはとても思えません。 どこから情報(ニュース)を得ていたのかも分かりません。 しかし彼はアブラハムが、そしてモーセが神からの啓示を受け取ったように、イスラエルへの厳しい預言と審判の言葉を語るように召されたのです。
   ◎当時のイスラエルはヤロブアム2世(前793-753)の下、第二の繁栄の時代を迎えていました。 周辺国との紛争もなく比較的穏やかな時代で活発な交易もなされ、大きな富をもたらしましたが、それは一部の上流階級に対してだけでした。 農村の貧しい階級との格差はますます拡がるばかりです。 都会では富める者たちが奢侈(シャシ)に溺れ、不公平と不道徳を行い、宗教的堕落も伴って、貧しい者たちはますます蹂躙され、誠に哀れな状態となっていました。
    ◎農牧で暮らしていたアモスはそのような都会、エルサレムの状況を見て、居ても立ってもいられなくなり、審判の預言活動を行います。 アモスは社会的正義と公平を求めます。「正義を洪水のように 恵みの業を大河のように 尽きることなく流れさせよ」(5:24)と叫びます。それは律法に記された貧しい者たちへの正義(出エ23:6)、やもめや孤児たちへの思いやり(申14:28-29)等に立ち返ることです。
     ◎大きな地震があったことが歴史的に知られています。大地も黙っていなかったのです。 私たちの社会も決して無関係とは言えないでしょう。 キリスト者はアモスのように社会的正義と公平を叫ばねばならない時代です。



2019年10月13日
「貧しさを誇るには」<<ヤコブの手紙2章1~9節>>

 ◎繰り返しになりますが、宗教改革者のルターは「律法による行い」よりも「信仰による義」を強調しました。ですから、「行い」ばかりを強調する『ヤコブの手紙』がお気に召さずにこれを「藁(わら)の手紙」だと軽蔑したのです。しかし果たして本当にそのように言えるのでしょうか?
 ◎主の兄弟ヤコブはパウロ先生の教えであるローマ、コリント、ガラテヤの信徒への手紙を念頭におきながら、それを「律法よりも信仰である」として行き過ぎた形で行動を軽視する人たちを、「・・なすべき善を知りながら、それを行わない・・」(4:17)人たちとして批判したと考える方が適切です。 どちらかではなく、どちらも大切なのです。
 ◎今日の聖句はとても分かりやすいと言えます。 特に解説を必要としません。 昨日の台風で避難所へ身を寄せようとしたホームレスの方が入所を断られたという報道に接しました。 税金を払っていない、という理由からとのことですが、怒りを禁じ得ません。 人は見かけで判断しがちです。 これは私たち誰もがそうだと言えるでしょう。
 ◎「言行一致」とか「有言実行」という言葉は行うにあたって決して簡単なことではありません。 それほど人間は心と体が分裂している存在なのです。すなわち、それだけ罪深い存在でもあるということです。
 ◎FM教会が貧富で差別をするメソジスト教会のあり方を批判して生まれたことはご承知でしょう。 会堂の席に格差が生まれていたのです。 フリー(無料)とは主の前で恵みの自由を意味します。 現在、ますます貧富の格差ということが叫ばれるようになって来ました。 神さまの圧倒的な恵みをますますフリー(自由)に伝えて行きましょう。


2019年10月20日
「天国のそろばん勘定」<<ルカ福音書19章11~27節>>

 ◎「神の国はすぐにも現れるものと思っていた」という人たちはただ待ち望むだけで今の現実の課題を放棄するような人たちを指します。 ですから、足もとをしっかりと見なさいよ、と警告しなければならない人たちでもあります。
 ◎ここの譬えをタラントンの譬え(マタイ25章14節以下)と比較すれば興味深いことが見えて来ます。 マタイでは各人の能力に応じて5、2、1タラントンが与えられたことになっています。 しかしたった1タラントンでも6千デナリ(労働者の約20年分の賃金)にも相当する賜物です。 今日の箇所は10人が平等に1ムナ(約100デナリ)が分け与えられます。 これは能力や使命というよりも神の恵み、福音そのものと考えた方が良いでしょう。
 ◎10人の内、3人の人の成果が報告されます。 10倍にする人、5倍にする人が現れますが、同じ福音を受けながら「布に包んでしまっておきました」という僕が最後に出て来ます。 タラントンの譬えでは「地の中に隠して」おく僕です。 ここで誤解されてはなりません。 問題はどれだけたくさん稼いだか(稼がなかったか)ではありません。 それはこの世的(資本主義的)な論理に過ぎません。 福音を受けてそれを隠すことは福音を見せなくすることです。
 ◎主の十字架のあがない=救いは私だけのものですか?すべての人のために主イエスは十字架で血を流されたのではないですか。 そんな尊い福音を升の下に隠しておくならそれはもはや福音ではなくなります。 光は他の人を輝かせたり暖めたりしなければ、もはや恵みではなく自己満足に過ぎなくなります。 神を愛すること、それは福音の光を人々に示し続けることなのです


019年10月27日
「私たちは何のために生きるのか?」<<創世記1章1~5,24~31節>>

  ◎「人間はどこから来てどこへ行くのか?」 これはあらゆる宗教・哲学者が答えようとして来た永遠の問いと言えるでしょう。 特に人間が死をもって終わることは受け入れがたい現実、また認めたくない真理でもあります。
  ◎そのような問いには永遠に答えがない、とする立場があります。 「不可知論」と呼びます。 なぜこの世に存在するのか、人間の価値など分からないと言うのです。 そうは言いつつも、科学的真理だけを絶対としていずれの宗教であれ信仰などは迷信に過ぎないとします。
  ◎それに対してもっと積極的に私たちの存在には意味などない、と否定する立場があります。 必ず死で終わる人間の生は病気、災害、差別、貧困、戦争等があるばかりで矛盾だらけの無価値、無意味であるから、自分の思うように生きるしかないと考えます。 虚無主義(ニヒリズム)と呼びます。 あるいは役立つものさえあれば良いとも考えます。
  ◎神を前提としないモノの考え方に拠ると、すべてが人間中心主義となり死で終わる人間の運命を克服することは永遠にできません。 そこから善意とか愛を導き出すことは不可能と言えるでしょう。 また、神を前提とする考え方の中には「多神教」など、どの神さまでも良いとする考え方があって便利ですがご都合主義に終わってしまいます。
  ◎もちろん聖書の神は最初にその目的と意義を提示しています。 私たち人間は「神の創造されたもの(被造物)」であると! 何のために生きるか? それは神さまが私たちを愛するためであり、私たちはその神さまの愛に応えて互いに愛し合うためです。 十字架の主イエスがその愛を具体的に示してくださいました。愛の神は存在するのです!