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阪南キリスト教会 / hannan christ church 



                   本日の説教より 

2019年11月3日
「それでも神に愛される罪人たる人間」<<創世記3章1~21節>>

  ◎神は初めから罪を犯す事を想定して人間をお造りになられたのでしょうか。 神は完璧な人間をお造りになることもできたのではないでしょうか。 人間の自由とは罪を犯すことの自由だったのでしょうか。 古代から神学者たちを悩まし続けた問題です。 神さまが私たちに与えられた自由は恩寵としての自由です。 さもなくば私たちは神の命令に従うロボットに過ぎず愛の対象とはなりません。
   ◎人類最初の人はこんなにも肉の誘惑に弱い存在でした。 恵みとして与えられた自由を誘惑の餌食として差し出してしまったのです。 サタンの誘惑に私たちの自由はいつも晒されることになりました。 これは罪(原罪)として私たちにも伝えられていますし、私たちはこの罪と常に向き合って生きることが自覚されなければなりません
  ◎イブだけが罪の原因ではありません。 イブの誘いに従って「園の果実」を食べたアダムは自分の行為をイブのせいにしてしまいました。 イブも「蛇がだました」と言い逃れします。 このように自らの罪を認めることなく責任転嫁することによって罪が消えた気持ちになるのですが、それは神さまが良しとされることではありませんでした。
  ◎創世記によるとこの結果、人類が担うことになったのは、出産の苦しみと労働の苦しみであったとされます。 そして究極的には「死」を引き受けることになったのです。
  ◎しかし、人間の役割がそれだけで終わったワケではありません。 そのような人間にもかかわらず神の愛は注がれ続けます。 アダムとイブに「皮の衣」が着せられた背後には神は人類を見捨てていないことが示されており、それは十字架の愛にまで続いて行くのです。


2019年11月10日
「それでも、神は罪人を招かれる」<<創世記12章1~9節>>

◎神がアブラハムを招かれた時、世界はどのような状態だったでしょうか。 前章(創11章)に描かれているのは「天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。」(11:4)と思い上がった人間を散らされ、混乱へと導かれた世界でした。闇の中に光りをもたらされた神(1:3-4)はこのような世界をそのままに放置される事を望まず、救おうとされます。
 ◎ここで神が用いられた手段はアブラハムとその一族を神の民として選ばれるという方法でした。 アブラハムおよびその家族、子孫はまず第一に「祝福」へと招かれました。 アブラハムは特別に選ばれた民ですが、優秀だから選ばれたのでしょうか? もちろんそうではありません。彼はエジプトで罪を犯す(12:9~)愚かな人間に過ぎません。「祝福」とは霊的な繁栄と考えて良いでしょう。
 ◎二番目に神は「共同体」へと招かれています。 それは自分たちとは異なる民族(カナン人)と共に生きる事への招きと言い換えられます。 言葉が通じる気心の知れた同族たちとだけ生きるのではなく、異文化・異宗教の人たちの中へ入って行き、そこで新たな共同体を築くのです。 そこには大きな摩擦・衝突も起こるでしょう。 それを怖れていてはなりません。 主が共におられる事を信じ抜くのです。
 ◎三つ目の招きは「礼拝共同体」への招きです。 アブラハムはカナン人が住むまさにその場所に「主のために、そこに祭壇を築いた。」(12:7)のです。 それは異文化へのあからさまな挑戦のように見えます。 しかし決して軍事的な挑戦ではありません。 自ら礼拝する姿を証しすることでその地に住む人々に伝道をしたのです。「礼拝する共同体」は「伝道する共同体」として旅をし続けるのです。



2019年11月17日
「罪人を救う神の壮大なドラマ」
<<出エジプト記2章1~10節>>

 ◎モーセはイスラエルの歴史で「出エジプト」を成し遂げた偉大な指導者であり預言者でもあります。 モーセはシナイ山で神から直接『十戒』を受け取ったことでも知られます。 神はアブラハムを通して救われるべき民を選ばれました。 選びは一方的に神の憐れみと恵みに拠るものでした。 今再びエジプトにおいて苦境に陥ったイスラエルの民を救い出すために神はモーセを選ばれます。
 ◎本日の箇所はモーセの出生について語られます。モーセの選びもまさに奇跡的な導きの糸で紡がれた神の計画と呼ぶしかあり得ないものでした。 エジプト王は増え続けるイスラエルの民に恐怖を覚え、人口抑制策をとります。 ヘブライ人として生まれて来る男の子をナイル川に投げ込んで殺すという残酷極まりない方法でした。
 ◎ここで思い起こして下さい。 主イエスが生まれた時、ヘロデ王が「ベツレヘムとその周辺一帯にいる二歳以下の男の子を、一人残らず殺した」(マタイ2:16)という出来事です。主イエスも奇跡的な導きによりエジプトへ逃れる事で救われます。 しかしその背後には同様に多くの幼子の命が犠牲となっているのです。 またモーセが入れられた「パピルスの籠」もベツレヘムの家畜小屋のまぶねを暗示しています。 そこは安心安全な場所などでは決してありません。 ◎敢えてもう一点言及するならばナイル川の水から救われる姿です。 モーセという名は「自ら引き上げる」という語と深く関連しており、主イエスの洗礼の意義がここに予型として描かれていることです。 モーセは王宮で育って行きますが、そのことを除けば彼は主イエスの先駆者であり、イスラエルの民は私たち全人類の象徴なのです。


2019年11月24日
「ダビデのための正しい若枝」<<エレミヤ書23章1~8節>>

 ◎イギリスの清教徒たち(Pilgrim Fathers)が国内の宗教的圧迫から逃れるために、メイフラワー号に乗ってアメリカに移住します。 厳寒と食糧不足でほどなく半数の人命を失いました。次の厳しい冬を乗り越えて収穫の季節を迎え現地の人々と共に神様に感謝して礼拝を捧げたとされています。この故事に倣い米国では収穫感謝祭(Thanksgiving Day)と呼ぶ収穫を分かち合う祭りを祝いました。 私たちもこれに倣って神さまから頂いた命と豊かな賜物に喜びと感謝を分ち合う者となりましょう。
 ◎聖書の「主が羊飼い」(詩23編)という良く知られたイメージはもちろん神がそうであるように王様を初めとして祭司、預言者、民の指導者たちが羊飼いとして民を養い、導かねばならないことを教えています。 しかしその責務を怠った指導者らは「私の牧場の羊の群れを滅ぼし散らす」だけだったと非難されます。 自分の事ばかりを考えて貧しく弱い人たちのことを考えなかった結
果、捕囚という過酷な結果を招いてしまうことになります。
◎主はこのような指導者(具体的にはヨヤキン王とされます)にバビロン捕囚という裁きを与えま
す。 この事態に直面したエレミヤの嘆きは大きく痛切ですが、もはや人間としての王に頼っていてはならない。 今や新しい王、それは「ダビデのために正しい若枝=メシア」としての王が主の一方的恵みとして上より備えられると言うのです。
◎ここに預言された「若枝=メシア」は「正義と恵みの業を行う」だけでなく、民たちを捕囚の苦しみから解放すると預言されます。 私たちはこの預言が主イエスにおいて実現されたことを信じてアドヴェントを過ごすのです。