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阪南キリスト教会 / hannan christ church 



                   本日の説教より 

2020年1月5日
恵みの上にさらに恵みを<<ヨハネ福音書1章14~18節>>

 ◎明日6日を「公現日」(エピファニー)と呼びます。狭い意味でのクリスマスシーズンはこの日で終わり、教会暦としては受難節、復活前節へと続きます。 私たちはこのようにして主のご生涯を繰り返し心に刻むことで神の独り子としてのこの世への到来の意義を感謝し記憶するのです。
 ◎ヨハネ福音書の冒頭(プロローグ=1~14節)は田の福音書と違って、非常に崇高な哲学的語り口で主イエスの降誕を語ります。 神学的用語ですが「(御子の)受肉」と呼ばれます。 本来は初代教会で讃美歌として歌われていたものと考えられています。 その意味で聖書中でも最も解釈の困難な箇所としても知られています。
 ◎神から遣わされた「言(ロゴス)」が肉体(=御子)となってこの世に現れた。 この表現だけでも私たちには充分に困惑するものですが、「言」の持つ意味とその力とともに私たちの救い主として共におられること(10節)、この「言」を受け入れた共同体(=教会)と受け入れない世界があるけれど、「言」は光として教会を照らし続ける。 これが序章の概略です。
 ◎本日の箇所は「私たち」が強調されます。 この「私たち」は前述した「神によって生まれた」(13節)共同体です。 ですからこの箇所から「私たち」の信仰告白となります。 「私たち」は先ず見ます。 神の栄光をこのお方の中に信仰の目をもって認めるのです。 栄光は「恵みと真理とに満ちて」います。 ヨハネによって証しされ、そして今や教会によって証しし続けずにはおれないお方、そのお方こそ御子なのです。 このお方は「恵みにさらに恵みを加えられる」 お方であることは何と大きな祝福でしょうか?


2020年1月12日
この方こそ!<<ヨハネ福音書1章29~34節>>

 ◎ヨハネの時代背景にはユダヤ教の律法主義的な立場に立つ勢力から主イエスの側につくのかどうかという圧力が存在しました。 ユダヤ教側から「あなたはどなたですか?」(19節)と問いかけるのは自らの陣営に反対する者は追放する意図があるからでした。 ヨハネはその問いに対して、メシアではなく、エリヤでも預言者(=モーセの事)でもないと自らを否定して応えます(20~22節)。
 ◎そうすると彼らはヨハネが行っているバプテスマについて、その権威の根拠について問い糾します。ヨハネは自分のあとに来る方、そのお方について言及します。しかし不思議なことにヨハネはその人物を特定することができません。 「わたしはこの方を知らなかった」と語るからです。 通常、始めて会うのならそのことも理解できます。 しかしヨハネが言う「知る」とは、何よりも人格的かつ信仰的な深い交わりをもった知り方、命を捧げても良いような知り方でしょう。 ですから彼は謙遜したのです。
 ◎さて神の子イエスは自ら、ヨハネのほうへやって来ます。 神自ら人間の側に近づいて来られたのです。 人間が神に近づくことはできません。 しかし、神が近づくとはまさに独り子を遣わした神の愛に基づいた一方的恩寵と言うしかありません。 クリスマスはまさにその出来事です。
 ◎ヨハネは自分に近づく主イエスを見て「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」と告白します。 これは命がけの告白です。 ヨハネは自らの前にへりくだりながらバプテスマを求める主イエスを前にして、さらに一層、「この方こそ神の子である」と証しし続けるのです。 私たちもヨハネのように主イエスを証しし続ける者となりましょう


2020年1月19日
来て、見なさい。そうすれば分かる」≪ヨハネによる福音書1章35~51節≫

 ◎ヨハネ福音書では最初の弟子たちの召命はマタイ、マルコの両福音書とはずいぶん異なった描かれ方がされています。 先ず最初の弟子はヨハネの弟子アンデレです。 そして彼が自分の兄弟であるシモン(=ペトロ)を主イエスに紹介するという形を取ります。 アンデレは最初からイエスをメシア(=キリスト)として兄に証しするのです。
 ◎シモンとアンデレの兄弟はヨハネが「神の小羊だ」と言った言葉によってイエスに従いました。 彼らは何故、主イエスが泊まっておられる場所に興味を抱いたのでしょうか? またヨハネ福音書はイエスがどこに泊まっているのかを二人の弟子が見た、という記事を何故残したのでしょうか? 主イエスの生活は王宮の豪奢な生活だったでしょうか? 欲に目の眩んだ弟子たちだったらそれに心奪われたかも知れませんが、とてもそのようには思えません。
 ◎「神の小羊」としての暮らしぶりを彼らは見たのです。そしてそこで一晩を過ごします。 彼らも一緒に生活をすることを通して、分かったのです。 マザー・テレサがしきりに強調するのは貧しい人と共に生きるということでした。 「見れば、分かる!」 証しの生活とは言葉を連ねて証明することではありません。 生活を見せることなのです。
 ◎ヨハネ福音書では3、4番目の弟子たちはフィリポとナタナエル(十二弟子中にその名はありません)です。 ナタナエルは疑い深い性格でした。 しかし、フィリポの「来て、見なさい」との言葉によって、自らの目で主を確かめることで「あなたは神の子です」と告白します。 信仰とは先ず主イエスの下に来て、見て確かめる事が先立ちます。 そのような私たちを、主は先ず見ておられるのです。


2020年1月26日
「水がめを一杯に満たせ」
<<ヨハネ福音書2章1~12節>>

 ◎「その翌日」(20,35,43節)の出来事の記事の後に「三日目に」とありますから、主イエスが公の宣教に入られてから1週間経った出来事である事が分かります。そんな短期間で主イエスは「その栄光を現された」(11節)のです。しかし一方では「私の時はまだ来ていません」と、神の救いの大きな計画(十字架の死と復活)については隠されたままでおられることに気づきましょう。
 ◎婚礼の席に招かれた主イエスの家族と弟子たちですが先ず主イエスと母マリアとの会話が置かれています。 一見して母親に対して「婦人よ」とは何と冷たい言葉だろうと思いませんか。しかし、マリアは「私の時はまだ来ていません」というイエスの言葉を受け止めて、召使いたちに何でもいう事を聞くようにと命じます。 これは母の配慮とともに子の使命を自覚した賢明さと言えるでしょう。
 ◎「清めに用いる水がめ」とは古い律法を象徴します。 相当大きな水がめであったことが判ります。 召使いたちは「水を一杯に」満たしなさいという言葉に何の疑いも抱かずに実行します。 私たちは意味のない事、何の役に立つのかと思われる事を行おうとはしません。 そこには自分中心主義の世界観があります。 信仰とはそのような考えを捨てて結果を主に委ね切ることです。 私たちの人生は主の呼びかけによって生かされているのです。
 ◎ぶどう酒に変えられた奇跡は主の言葉に従った召使いたちだけが知っています。 世話役は花婿を賞賛しますが、その意味を知る者は主イエスの言葉に従った者だけです。古い律法は古いままですが、それを完成するお方は主イエスだけです。 主のお言葉に無条件で従っていますか?