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阪南キリスト教会 / hannan christ church 



                   本日の説教より 

2020年2月2日
新しき神殿を建てる<<ヨハネ福音書2章13~25節>>

 ◎本日の場面は先週の「カナの婚宴」の華やかな場面から一変します。 ユダヤ人たちにとって一年に一度の最大のお祭りである過越祭の事。 主イエスは慣例に従ってエルサレムに上ります。 そこで目を疑うような事が起きます。 一般に「宮清め」として知られている箇所で、商売人たちを追い出し、その台をひっくり返すという過激な行動に出たのです。 この行動も「しるし」として理解されます。
 ◎人々はこの前のカナの奇跡を見たあと、さらに奇跡を求めるようになります。それは無理も無いことです。 しかし、自分に都合の良い奇跡だけでは御利益主義に終わってしまいます。 主イエスは人々が御利益だけを求めることを望まれません。 奇跡はあくまで神の真理・信仰に至るための「しるし」に過ぎないことを理解しましょう。
 ◎動物を売る商売は神殿祭儀の贖罪の犠牲のためのものですが、本来は聖なる場所でなければならない神殿(境内ですが)が宗教の名を借りたお金儲けという場に成り果てていたのです。 Mルターが当時の教会が会堂建設の名を借りて贖罪符を売っていたことを思い起こさせます。
 ◎主イエスの過激な行動は当然ですが大きな反発を呼びます。 主は断言します。 「この神殿を壊してみよ。三日で立て直してみせる」と。 目に見える神殿はヨハネ福音書記者にはもはや(ローマ軍によって)破壊されてなくなっていました。 福音書記者にとって必要なのは目に見える神殿ではもはやありません。 古い律法(先週の「水がめ」のように)を超越した新しい生き方です。 それは「三日で」と宣言された主イエスの復活を指すことは明白です。 神殿に替わる復活の命に生きる信仰を主は示されたのです。


2020年2月9日
「真理はあなたがたを自由にする」<<ヨハネ福音書8章31~38節>>

◎「真理」と「自由」。 哲学者なら永遠に議論できそうな重たい言葉です。 私たちは本当に自由なのでしょうか? 主イエスは「私は道であり、真理であり、命である」(14:6)と仰られたので、主イエスが自由を与えることのできる存在であると先ずは言う事ができます。
◎私たちが自由でないとはどういうことか?それは私たちの善行に報酬(救い)が伴うとする御利益主義の考え方に囚われている状態です。 これは律法主義とも言います。
◎そこでは多くの戒めを遵守すれば救われると考えるのです。 しかし、それは自由とはほど遠い状態といえます。 現代の律法主義には、学校や会社、(宗教)団体による規則やノルマといった締め付けが存在します。 本性が罪人である人間がどのように善行を重ねても空しいだけです
◎自由には「~からの自由」があります。 聖書は壮大な自由の物語で満ちあふれています。 出エジプト記はエジプトの奴隷状態からの解放を唱います。 イザヤやエレミヤはバビロン捕囚からの自由を語ります。 なによりも人間は本質的に罪の奴隷です。 自由ではありません。 しかし主キリストの贖いの血潮によって、全く無代価で義とされます。 これは一方的な神の恵みによるものです。
◎また「~への自由」という事も忘れてはなりません。M.ルターはキリスト者は「(キリスト以外の)誰にも服しない自由」があると共に、すべての人に奉仕する自由も持っていると語ります。 僕としての自由です。 主イエスの十字架の赦しの愛がそれを可能にします。 ですから、罪を恐れる必要は全くありません。 自由にして僕である。 これがキリスト者をキリスト者たらしめている真理なのです。


2020年2月16日
「床を担いで歩け!」<<ヨハネ福音書5章1~18節>>

 ◎主イエスはエルサレムを往来しますが、エルサレムではユダヤ人たちの反発を買うばかりです。 しかし、ガリラヤのカナでは「しるし」を行われます(2:1~、4:46~)。 またユダヤ人たちが嫌うサマリアでは女性に近づき「永遠の命に至る水」(4:15)について述べられます。 ユダヤ人たちと敢えて対立する道を歩んでおられるのは明白です。
 ◎エルサレムでは前回(2:13~)、神殿商人たちと対決されました。 それ故、ユダヤ人たちは主イエスを警戒しています。 そのような中で、しかも安息日に罪人の象徴とされる障がいを持った人たちの処に近づいて行かれるのです。
「五つの回廊」とありますが「5」という数字はモーセ五書の「5」を暗示しています。 すなわち律法の象徴です。 しかしその周辺には救いとはほど遠い、絶望した人たちが集まっているのです。彼らは救いを待望しているのです。
 ◎さて主イエスはそのような中であえて38年間もただひたすら他人頼みで「水が動く」のを待っている人物を選ばれて近づいて行きます。 律法では汚れているとされていた人物にも関わらずです。 そして訊ねられます。「良くなりたいのか?」。 あまりにも当たり前過ぎる質問です。 でも敢えて訊ねられたのです。 しかしこの人物の応えは誰も自分を助けてくれない、というものでした。
 ◎この絶望の中に置かれた人物に主イエスは驚愕すべきことを命じられます。「起きて、床を担いで歩きなさい」と! そんなことできるのなら既にしている、と反論したくなるところです。 しかし、彼は主の言葉に従いました。 奇跡は主の言葉に従う処に起きるのです。 諦めと絶望は何ものをも生みません。 信仰と希望がそれを生むのです。


2020年2月23日
「欲しいだけ与える主」<<ヨハネ福音書6章1~15節>>

◎日常生活で段取りや計算高さは時に必要です。 しかしそれが必ずしも解決へ導くかと言うとそうではありません。 自分に従う大勢の群衆を見た主イエスは敢えて山に上ります。 それは後からの困難を見通した上での事です。主イエスはピリポを試します。 群衆の数は五千人とされていますが女性子どもを加えるともっと多かったでしょう。計算高いピリポはすぐに応えます。 「足りません」と。
◎そこに弟子の一人アンデレ(ペトロの兄弟)が加わります。「何の役にも立たないでしょう」。 私たちは現実を前にして否定から始めるのが常です。「ありません」「できません」。 そしてこの否定がどれほど私たちの人生の可能性を最初から閉ざしてしまっていることでしょうか。 「そんなこと言ってもできないものはできない」と。しかし「神にできないことは何ひとつない」(ルカ1:37)のです。 人間の計算高さを捨てて、神に依り頼もうではありませんか?
◎主は現実にあるものから出発されます。 架空のものではありません。 「大麦のパン五つと魚二匹」です。 これを持っていたのは少年です。 大人には備えるという知恵がなかった事もやや滑稽ですが、少年に目を留められたのはルカの意図でしょう。決してバカにしてはいけないよ、と。
◎「パン五つと魚二匹」なら私たちの日常生活に存在している筈です。 しかし、それだけしかないとなったら出し惜しみしたりするのです。 神さまは無から有を生み出す方であるとはいえ、いつも人間の都合に応えられるのではありません。 自らを無にして献げる時に奇跡を起こされるのです。 そして、私たちを満たすばかりでなく、他者の必要をも満たすまでに至らせてくださるのです。