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阪南キリスト教会 / hannan christ church 



                   本日の説教より 

2020年7月5日
キリストにあって建てられた体
<< エフェソ2章11~22節 >>

 ◎「以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となった」(13節)。 ここに福音の奥義が簡潔に表現されています。 二つの表現の間にある本質的な違いに目を留めましょう。 まず過去の希望のなさ、換言すれば律法によってがんじがらめにされていた生き方が、今は希望に変えられて生きることができている。 ここにはユダヤ人の生き方が前提にされていますが、私たちの過去と現在の生き方は福音によって本質的に変化していると言えるのかと問い続けることが大切です。
 ◎もう一点は、「遠く離れていた」者が「近い者」となった。「遠く」「近く」は単に距離の大きさを言っているのではありません。 神と結びついているかどうか? 神と共にある生活が語られているのです。 そしてこれを可能にしたのが「キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって」と表現された主キリストの十字架の贖いの福音です。 福音は時と場所を超えた平和と喜びに満ちた生活を私たちにもたらしてくれます。 私たちはこの福音の力に与りながら生きることができる。 そこに信仰生活の喜びがあるのです。
 ◎さて、二つの本質的に異なった「二つのものを一つに」(14節)する十字架の贖いの福音は「隔ての壁を取り壊し」たり「律法を廃棄」したりします。 しかし、壊した後には建て上げねばなりません。 それも同じく「十字架を通して」(16節)、「キリストにおいて」(18,21,22節)でしかあり得ないのです。 ここには建築のイメージがあります。 まず「かなめ石はキリスト・イエスご自身」(20節)です。 建物は私たち自身でもありますが、キリストのからだとしての教会と言って良いでしょう。 私たちはそのかけがえのない肢体なのです。


2020年7月12日
死に勝利する新しい命

<< 使徒言行録9章36~43節 >>

◎ペトロは、エルサレムから、ユダヤ、サマリアと各地に広がってきている諸教会を指導する者として、フィリポが宣教した地域を巡回しながら、主イエスを信じた聖なる者たちを訪ね、力づけ、励ましていました。
◎9章でペトロによってなされた二つの奇跡は、主イエスの奇跡を思い起させます(ルカ5:17~26、ルカ8:46~56)。しかし、このような奇跡が起こったのは、ペトロ自身の力によるものではありません。ペトロは主に癒しを求め祈りました。苦しみの現実の中で、主イエスが救い のみ業を行ってくださったのです。
◎ペトロによる奇跡において大切な事は、中風の人が癒やされた、死んだ者が復活したという、命の源である神により回復したことと共に、その周りの多くの人々が霊的に回復し、主イエスに立ち返り、主イエスを救い主と信じたことです。十字架で死なれ、三日目に復活され、天に帰られた主イエスこそ創造主であり、まことの神であることを証しする「しるし」だったのです。主イエスが中風の人を癒やされた時に、主イエスはまずこの人に罪の赦しを宣言されました。そして、主イエスが罪を赦す権威を持っておられることを知らせるために、病を癒やされました。主イエスの十字架と復活により、私たちの罪を赦し、神と人の関係を回復して下さったのです。主イエスは、神の祝福のもとに生きる新しい命を与えて下さるお方なのです。
◎主に立ち返り、主を信じるなら、主イエス・キリストによる神の救いの恵みによって、死に勝利する新しい命 が、私たちを捕らえ、私たちの歩みを支え導くのです。



2020年7月19日
復活するという希望
<<使徒言行録24章10~21節>>

パウロは3度にわたる困難な伝道旅行を通して異邦人への宣教の働きをしていました。 パウロの宣教を通して改宗するユダヤ人たちがいました。 彼らはユダヤ教の律法に従うか、福音かという周囲からの圧力に常に晒されて生きざるを得ませんでした。 しかし両者は矛盾しません。
一体パウロは何のために告発され被告席に立たされているのでしょうか? 異邦人を神殿に引き入れて神殿を汚したという言いがかりでした。 パウロは清めの式を受けるために神殿に行っただけでした(27:17~)。 それはユダヤ教内部の律法問題ですが、反対者たちは平和を乱したという政治問題にねじ曲げて訴えたのです。
ローマ法とユダヤ法の両方に通じた弁護士テルティロが雇われて総督フェリクスの前でパウロへの告訴が始まります(24:1~10)。  その告発はまず権力者へのへつらいの言葉から始まります。 そして被告パウロを「疫病のような人間」(24:5) と激しくののしるのです。 パウロはこれらの言葉に落ち着いて、そして誠実に告訴状に対して弁明をします。 大勢の前でたった一人でしかも「喜んで弁明」したのです(24:10)。 真実だけが彼の味方をします。
◎パウロの弁明の中心は福音です。 自らがエルサレムに来たのは「同胞に救援金を渡すため」であり、神殿に上ったのは「供え物を捧げるため」である事を理路整然と述べます(16節)。 パウロの堂々とした態度はあの預言者エリヤが多くのバアルの預言者に対抗したのに似ています。 パウロは騒乱罪の言いがかりを復活の希望へと言い換えて福音を語るのです。 彼はただ神の言葉以外の何ものにもより頼みません。 語るべき言葉は聖霊が与えてくれます。


2020年7月26日
「嵐を乗り越えて
<<使徒言行録27章33~44節>>
◎パウロはアジアから来たユダヤ人の扇動で神殿境内で捕えられた。しかし騒動を知ったローマの守備隊がパウロを逮捕し、連行する。パウロはフェストゥスが総督に着任した機会に、皇帝に上訴するローマ市民の権利を行使した。パウロは他の囚人たちと共に、船でローマへと護送されることになった。その途中、暴風に襲われた。
◎船が難破して旅が終わってもおかしくない状況の中で、パウロは同船の人々を力づけ、励まし、その生命を救う働きをしました。パウロがローマへ行き、皇帝の前でキリストの福音を語るという使命を神様がパウロに与えておられました、また同船している全ての人が救い出される約束も与えらたので、彼は誰一人命を失うことはない、という確信を持っていました。
◎パウロは、14日もの間何も食べていない今こそ皆が食事をするべき時だと言い、自らパンを取って感謝の祈りをささげて食べ始めました。いつもの通りに、食前のお祈りをして食事をしたことが、同船していた人々を元気づけ、彼らにも食事をさせる力となったのです。信仰をもって営まれる日常の何でもない行為が、同船していた全ての人々を元気づけ、彼らにも食事をさせる力となったのです。そのようにして、一人の囚人に過ぎないパウロが、同船の者たち全員を助けることができたのです。
◎神様を礼拝し、み言葉に聞き、信じて神様に従い、どんな時も神様に祈りつつ歩むなら、何でもない小さな日常の働きのようでも、そこから主の救いの業が始まるのです。私たちと共に歩んでいる人々が神様の祝福をいただき、神様の恵みに満ちたものとなって行くのです。