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阪南キリスト教会 / hannan christ church 



                   本日の説教より 

2021年2月7日  
「主よ、ごもっともです」《マタイ15章21~28節》

◎ティルスとシドン地方は地理的には主イエスの活動の本拠地であるガリラヤから相当離れています。また歴史的には地中海に面した貿易で栄えた都市です。 地域特有の癒やしの神々の神殿が祀られていた事が知られています。さて主イエスは何故そのような遠方にまで足を運ばれたのでしょうか?理由を伺い知ることは困難ですが、「イスラエルの家の失われた羊」の癒やしを求めたと考えられます。
◎さて主イエスの前に意図せずしてカナンの女が現れます。 彼女は自分の娘の病気のために苦しんでいました。そして、その娘の癒やしを求めて突然大声で叫び始めます。 「主よ、どうかお助けください」と。 彼女の執拗な願いに弟子たちは迷惑千万とばかりに追い払うように主イエスに求めます。 しかし主イエスは沈黙を守ります。 この主イエスの不親切は私たちを当惑させます。 それどころ
か、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」と無慈悲にも突き放した言葉がけをするのです。 パンは御言葉を指します。ここでは病の癒やしです。  小犬とは異邦人に対する侮蔑(差別語)です。 この主イエスの態度も私たちを困惑させます。 どうして主はこのように冷酷なのだろうかと。
◎その語に対してカナンの女は「小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただく」と応えます。 冷たく遇われたのですから怒って立ち去っても良かったでしょう。 また激しい言で反論しても良かったのに、彼女は冷静に主の前に謙虚になって異邦人としての礼節を弁えた言葉を返します。
◎主への信頼と期待は何よりも大きかったのです。  その言葉に主は「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。」と娘の癒やしをもって応えられます。信仰が癒やしを引き出したのです



2021年2月14日  
「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」
《マタイ14章22~36節》

◎今日の聖書箇所では、弟子たちが「恐れ」や「疑い」から「信頼」「信仰」へと、導かれています。「信仰」とは「神の存在を信じる」ことではありません。問題は「神に信頼を置くかどうか」です。「疑い」とは神に信頼しないことです。神に信頼せず、自分の力だけで危険に立ち向かおうとするとき「恐れ」に陥るのです。
◎主イエスは恐怖におびえている弟子たちに「安心しなさ 『安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。』 (14:27)と語られました。「わたしは確かにここにいる。あなたと共にいる。もう何の心配もない。 安心しなさい。恐れるな」と言われているのです。主の励まし、安心の中で、心の内の恐れと向き合うことが出来ます。主イエスのもに重荷を下ろし、平安のうちに回復をいただき進むのです。
◎主イエスに信頼して向かって行ったペトロは、気がつくと「風を見て恐ろしくなり」 (14:30) 、沈み始めます。しかし、主イエスが手を伸ばし、捕まえて下さいました。「信仰の薄い」とは「小 さな信仰」という言葉から来ています。ペトロは自分自身の本当の姿を知り、そこから主に頼り、支えられ、励まされながら歩んで行くことを学んだのです。
◎一行は向こう岸のゲネサレトに着き、大勢の病人が主イエスのところに連れて来られ、癒やされました。小さな信仰を持って主イエスに従う弟子たちも共にいます。ただ主に頼り、主と共に働いているのです。 主に信頼する小さな信仰者と共に、主は大いなる救いの御業を表して下さるのです。



2021年2月21日  
「試みを受けるからこそ」《マタイ4章1~11節》

◎誘惑(する者)、あるいは「試み」、「試す」と言う語が入り交じって使われています。しかし原語ではすべて同じ言葉(Peirasmon というギリシア語)が語源です。すなわち誘惑という日本語と試練という日本語は違うように聞こえますが、聖書では同じ言葉であるということを先ず念頭においてください。日常的な誘惑を神からの出来事、 試練として受け止める。 それが本日の主題です。
◎宣教のはじめに主イエスが試みを受けられた。 それは私たち人間の弱さを引き受けられたことであり、私たちもその後に続く見本を示されたことでもあります。三つの誘惑が語られています。 先ず「石がパンになる」。これは肉体上の、あるいは物質的誘惑です。イスラエルは出エジプトを果たした後にエジプトの生活が良かったとつぶやきます。 霊的自由が簡単におろそかにされてしまって平気になるのです。
◎二つ目は信仰的・宗教的誘惑です。いかにも信仰的な熱心さ、姿勢を装って(=神殿の頂上から)誘惑が臨んできます。聖書の言葉を用いて宗教的な勧誘がカルト等からなされます。「主を試してはなりません」。それらは私たちを霊的な盲目へと導くだけです。 真の光はイエスを主とする時のみに訪れ、闇の中にいる私たちを照らします。
◎三つ目は政治・権力への誘惑です。人間や組織を支配することで満足を得ようとする誘惑は言葉や態度において暴力的になって行きます。 そして上に立つことで神をも怖れなくなくなるのです。「主を拝み、ただ主に仕えよ」と教えられています。 私たちが主にのみ、そして主の恵みの中に生かされる時こそ祝福されるのです。 主イエスは誘惑を受けて勝利者となられた。 そのイエスに従いましょう。