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日本フリーメソジスト教団阪南キリスト教会のホームページへようこそ

阪南キリスト教会 / hannan christ church 



                   本日の説教より 

2021年5月2日  
「心を騒がせるな、この道を共に」《ヨハネ14章1~11節》

<ヨハネ14章1~11節>◎最後の晩餐の席上、主イエスは「あなたのためなら命を捨てます」と言ったペトロに対し、三度わたしを知らないと言うだろうと予告されました。心騒ぐ弟子たちに対し「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、私をも信じなさい」と言われました。神様を信じ、また主イエスを信じるなら不安や恐れが消え去るのです。それは主イエスが、あなたがたのために、わたしの父の家(神の国、天国)に住む所を用意して下さるからです(2節)。
◎主イエスは、天の父なるみ神のもとに行って、そこで弟子たちのために場所を用意し、その後また戻ってきて、自分のところに迎える、と言われました。主イエスは、信じて従う者を神のもとへと連れて行って下さるのです。
◎主イエスが言われることを理解できなかったトマスや、満足するために神を示して欲しい、と願ったフィリポ が、疑問を素直に主イエスにぶつけたことで、それまで語られなかった新しい教えが引き出されました。主イエスが父なる神のみともに至る唯一の道であり、主イエスご自身が真理そのものであり、命そのものであられること。 主イエスは神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れである(ヘブライ1:3)ので、主イエスを見る人は、神を見、父なる神が主イエスの内におられるのです。
◎ヨハネ福音書には、父なる神と御子イエスの関わりをす箇所が多くあります。主イエスは人間であると同時に、神そのものなのです。心騒ぐ中で、様々な思いが生じます。主の前に素直に告白しつつ、主の前にとどまり、主の声を聞くのです。主は共にいて下さり、私たちを神のもとへと連れて行って下さるのです。



2021年5月9日  
「主の祈りを祈り続ける」《マタイ6章1~15節》

◎本日は「母の日」を覚える礼拝でもあります。アンナ・ジャービスさんは南北戦争で混乱した社会状況の中で、自らも息子らを戦争で失ったにもかかわらず、傷ついた兵士やその家族を癒やす働きを続けるという主に平和をもたらす働きを続け、大きな社会運動となりました。無償の愛に報いる働きは何か私たちも考えて行動したいものです。
◎「主の祈り」として知られる今日の箇所は「山上の説教」(マタイ5~7章)の中心部分に置かれていますが、よく観察すると「施し」(1~4節)と断食(16~18 節)の間にはさまれるように置かれていることは重要です。 施し・祈り・断食の三つは当時のファリサイ派の人たちが自分たちの義を証明するために重要な実践行為となっていました。彼らはそのために人に見せる必要がありました。 主イエ スは彼らの行為を「偽善者のよう」と厳しく批判されました。偽善者とはギリシアでは俳優を意味する語です。 俳優は人に見てもらうことを生業とする生き方だからです。
◎そのような行為に対して主イエスは「その報いをすでに受けている」と言われます。 私たちの行いが神さまの目を意識するのではなく、人の目を気にし出す時に、すでにその行為は信仰とは無縁なものとなってしまうと言うのです。 私たちも人の目を気にしつつ生きています。 そして誇ろうとします。高い評価を受けることができれば誇ることができます。そのために、背伸びしたり虚勢をはったりしていないでしょうか。私たちが常に意識しなければ ならないのは他人の目ではなく「神さまの目」です。「主の祈り」は主が教えられた祈りのお手本であり、ただひたすらに祈り続けることに大きな意義があるのです。



2021年5月16日  
「祝福しながら」《ルカ24章44~53節》

◎主イエスは弟子たちに、ご自身の生涯が(旧約)聖書の成就であると教えられた(44節)。そして弟子たちに聖書を悟らせるために、彼らの心を開かれ(45節)、これまでにも繰り返し語られていた、十字架と復活のイエスが救い主であることを言われた(46節)。
◎主イエスが弟子たちの心を開いて悟らせようとしたことは、十字架の死と復活によって与えられる「罪の赦し」であり、それを受けとるために必要なことは神への「悔い改め」です(46節)。「心」という言葉は、感情的な領域の「心」ではなく、知性、理性の領域を表す「心」です。そして、聖霊を弟子たちに送るという約束もして下さいました。
◎主イエスは両手を上げて弟子たちを祝福しながら天に上げられた。「祝福する」とは、「良い言葉を語る」という言葉から来ています。主は天に上げられましたが、弟子たちは十字架の死の時のように、悲しみに暮れるのではなく、イエスを伏し拝み(礼拝する)、喜んでエルサレムに帰りました。弟子たちは、天国、救いの世界が近くにあることを感じ喜んでいたのでしょう。
◎私たちの歩みは死で終わりではなく、死を通り抜け、神のもとへと、天に至る歩みなのです。昇天の出来事によって、主イエスは単に生き返られたのではなく、神と共に永遠の命を生きる方となられました。エルサレムに帰った弟子たちは神殿で神をほめたたえていました。「ほめたたえる」は「祝福する」と同じ言葉です。弟子たちは良い言葉を語っていたのです(「賛美と祈りを唱え」ルカ24:30)。主の良い言葉によって励ましをいただき、主と共に生きて、賛美をささげる歩みへと導かれるのです。


2021年5月23日  
「精霊降る」《使徒言行録2章1~13節》

◎聖霊降臨日を覚えると共に、毎年5月24日、全世界のメソジストの伝統に連なる諸教会はメソジストの父ジョン・ウェスレー司祭の回心記念日を覚えます。1738 年 5月 24 日の夕べ、嫌々ながら参加したロンドン・アルダスゲイトの集会において、ルターの『ロマ書序文』が朗読されている時、ウェスレーは福音的回心を経験します。信仰義認の確証が与えられたとされています。これ以降、メソジストの信仰復興運動は、大きく前進し、現在では世界中におおよそ 8000 万人に迫る教会に成長しました。
◎さて「ペンテコステ」とはラテン語の50を表す語です。 イースターから七週を数え終って最初の日となります。 ペンテコステを「教会の誕生」の出来事として見ることは間違いではありませんが、主イエスと弟子たちの交わりも教会そのものでした。 教会とは建物ではありません。ペンテコステは聖霊が与えられることによって「宣教する教会」の誕生をルカは私たちに遺そうとしたのです。
◎「聖霊降臨」とは神さまの側からの聖霊の出来事ですが、その前提として人間の側の備えがありました。そしてそれは人間にできる唯一の事でした。 「一同が一つになって集まっていると・・」(1 節)これが聖霊が降り注がれる条件となっています。また「信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし・・心を一つにして・・・一緒に食事をし・・・」(44 ~ 47 節)。
◎「ひとつ」「一緒に」という語がキーワードでこれらは「分かち合う」という語と同義語です。 今、パンデミックが世界中を襲っている中、大切なことは苦しみを分かちうことです。 インド、ミャンマー、ネパールの教会を特に覚えて祈り続ける者となりましょう。



2021年5月30日  
「キリストにおいて」《エフェソ1章3~14節》

◎エフェソは、アルテミス神殿がある美しい都市、パウロは二度訪れ伝道した(使徒言行録18:19-21、19章、20章では長老たちを呼び寄せ共に祈り、別れを告げています)。3-6節は神への讃美、7-12節はキリストへの讃美、13-14節は聖霊への讃美となっており、三位一体、終末論的賛 美として、壮大な神の救いを始まりから終わりまでを見るように、神がなされることをほめたたえています。
◎父なる神は、私たちの救いのために、私たちをキリストにおいてお選びになり、キリストによって神の子にしようと定められていたのです(3-6節)。天地創造の前に、神は私たちのために救いの計画を立て、その救いの中に私たちを選んでいてくださったのです。
◎父なる神の救いのご計画は、キリストにおいて完成したのです。聖霊によって証印を押されるとは、神ご自身が、私たちが正真正銘、神の子どもであることを証明し、神の子とされた私たちがあらゆる危険や誘惑から守られることを保証され、将来的には完全な御国を相続するという保証を意味しています。
◎神が与えて下さった私たちの人生の目的は「神の栄光を讃える」ことです。私にかかわるすべてのことがキリストにおいてなされ、私に対する神のご計画のひとつひとつが、キリストにあって備えられています。このことを信じることです。私たちキリスト者の成長は、私たちが何かをすることによって自己を認識することではなく、 神がキリストにおいてすでになしてくださったことを発 見し、そこにとどまり続けていくことによって、成熟していくのです。