本文へスキップ

日本フリーメソジスト教団阪南キリスト教会のホームページへようこそ

阪南キリスト教会 / hannan christ church 



                   本日の説教より 

2021年7月4日  
「清い手を上げてどこででも祈れ」《Ⅰテモテ2章1~8節》

◎テモテはパウロの異邦人伝道の協力者でもありますが、それ以上にパウロはテモテを自分の(信仰の)子として特別な関係を結んでおり投獄、殉教の時でさえもそばに居て支え合ったと考えられています。 そのテモテに信仰生活の肝でもある「祈り」について書き送ります。
◎「願いと祈りと執り成しと感謝」(1節)という四つの言葉がここには掲げられ、祈りはその一つとされていますが、それぞれの意味の違いに注目するよりも(それは生産的でありません)むしろ大切な祈りの幾つかの要素として、また祈りの姿勢、祈りの生活のあり方としてこの四つがあるのだと考えるべきでしょう。
◎祈りのあり方として先ず第一は祈りの対象です。「すべての人々のために」とパウロは薦めます。 そこにはキリスト教徒を迫害していたユダヤ教指導者たちやローマ皇帝とその高官たちも排除されず含まれているのです。 これは単なる愛敵精神に留まりません。 いかに政治的状況がキリスト教徒にとって苦難そのものであり、また社会的秩序が乱れ希望が見えない時であっても、政治に関わるすべ ての人々のために祈りを通して神がなしてくださるワザを待ち望みつつ人生を送ることです。
◎次に「常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を」とあります。 私たちはこれは現実的に不可能だと思ってしまいます。 現在も苦難と迫害の中にある多くのキリスト者が暮らす国が多々存在します。 私たち自身もその犠牲者となる可能性はいつでもあります。 その時、「怒らず争わず、清い手を上げてどこでも祈る」ことは弱さでも消極的行でもなく、神への大胆な信仰の表明なのです。



2021年7月11日  
「主の言葉は力を増していった」《使途言行録19章13~20節》

◎パウロの三回目の宣教旅行において、前回立ち寄ったエフェソに来た。パウロはここに長期間滞在した(8,10節 頌 栄 539 一 同 ・礼拝後は速やかに帰宅して下さい。 では二年三ヶ月、20:31では三年間)。パウロは神の国のことについて大胆に論じ、アジア州に住む者は誰もが主の言葉を聞くこととなった。
◎パウロを通して、神が目覚ましい奇跡を行なわれていることを知ったユダヤ人の祈祷師たち(祭司長スケワの七人の息子)が、「悪霊どもに取りつかれている人々に向かい・・・主イエスの名を唱えて『パウロが宣べ伝えているイエスによって、お前たちに命じる』」と試みた。しかし悪霊は、パウロとは違うということを見抜き、祈祷師たちを、ひどい目に遭わせた。この出来事によって、「人 々は皆恐れを抱き、主イエスの名は大いにあがめられるようになった」。
◎さらに、信仰に入った大勢の人が、主イエスを信じて生きる者となったにも関わらず、魔術や占いに頼っていたようです。彼らはその「悪行」を告白し、魔術や占いの書物を焼き捨てた。エフェソは異教の神々が拝まれ、人々の間に魔術や占いが一般的なものとなっていたのでしょう。しかしそれは、罪から救い出し、命を与えて下った、生ける神に頼らないという「罪」なのです。
◎この出来事によって「主の言葉はますます勢いよく広まり、力を増していった」のです。「主の言葉」であって、パウロの名声や奇跡の力ではありません。それらは福音の進展に用いられましたが、あくまでも副次的なものでした。広がったのは、「主の言葉」です。 主のみ言葉には力があり、人と社会を変えて行く力があるのです。



2021年7月18日  
「神は泣き声を聞かれている」《創世記21章9~21節》

◎本日の聖書箇所はある意味、残酷な物語です。 エジプトの女奴隷ハガルが産んだ子、イシュマエルをハガルと共に追放するというものです。彼らは荒れ野を彷徨います。そして糧食が尽きた時に、生きる望みを放棄し、一本の灌木の下にイシュマエルを放置して成り行きを見守ります。ハガルは「声を上げて泣」くしかありませんでした。 私たちの人生にただ絶望して泣くしかないような時がある。 ◎この箇所を注意深く聖書を読むと「神は子どもの泣き声を聞かれ・・」とあります。泣いたのはハガルですが、神が聞かれたのはイシュマエルの泣き声でした。イシュマエルさんも泣いたのでしょう。私たちにはどうしようもできない危機というものが人生には起こってくる。泣くしかない時、祈るしかない時。その時、泣き叫ぶ当事者の声を聞いてくださる神さまがいる。これが聖書のメッセージです。そしてそれは何と大きな励ましでしょうか。
◎私たちが困った時、実はもっと困っているのは子どもである。そして、私たちが放棄しようとするとき、神さまがその声を聞いて応えてくださる。 何か難しいことをしろというわけではない。ただ、「立って行って、あの子を抱き上げ、お前の腕でしっかり抱き締めてやりなさい。」 だけで良い。 ◎神さまは絶望のドン底にいたハガルの目を開かれます。 「彼女は水のある井戸を見つけた」。聖書を読むとき、こういう部分に注目して頂きたい。突然、そこに井戸が現れたのですか?井戸はもともとそこにあった筈です。 でも人間は絶望してしまうとあるはずのものが見えなくなってしまうのです。子どもを「抱き上げ、お前の腕でしっかり抱き締め」る。 神さまはご覧になって守られる御方なのです。



2021年7月25日  
「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」《Ⅱコリント5章14~6章2節》

◎「和解」は敵対関係にあるものが、歩み寄り、仲直りして、平和な関係で互いに生きていくことを約束し、成立します。神と私たちは私たちの罪によって、敵対関係にあるのです。罪とは「的外れ」という意味です。私たちを創った、創造主なる神様を忘れている状態、離れている状態、背を向けている状態が「的外れ」なのです。
◎キリストの愛は、神に向かって罪を犯し続けている人間の命を救うために、御自身の命を犠牲にする愛です。主イエスの十字架は、「人々の罪の責任を問われて」死なれた十字架です。そこに私の罪の責任が問われ、私の死でもあるのです。キリストは、死ぬ必要のない方でしたが、私の罪のために死んで下さったのです。
◎神の罪に対する敵意が、キリストの十字架において取 り除かれ、私たちは神の義を得ることが出来、和解の言葉が神の恵みとして、私たちに与えられたのです。罪ある人間を、神が一方的に愛してくださり、この和解の福音に与らせようと願っておられるのです。。
◎神は、私たちに代わってなされたイエス・キリストの十字架の業を、私たちの業としてくださり、私たちの「罪の責任を問うことなく」、私たちと「和解」をして下さったのです。和解が実現した現在は、「恵みの時」であり、「救いの日」です。神の救いは、遠い将来に与えられる約束だけではありません。イエス・キリストにあって和解が実現した今こそ、「救いの日」なのです。この 恵みを無駄にすることなく、主イエスが私たちと共に歩み支えて下さり、私たちの内に豊かに働いて下さるように、主と共に働く者として歩んでまいりましょう。