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阪南キリスト教会 / hannan christ church 



                   本日の説教より 

2021年11月7日  
「私に何をくださると言うのか」《創世記15章1~16節》


◎アブラハムは神さまの招きに応え、故郷・父の家を後にして旅立ちます。 そこには神さまの土地授与と子孫祝福の約束(神学的には契約と言う)があったからです(12章)。今、アブラハムは再び神さまから同じ招きを受けます。しかし今回は違います。アブラハムは「わたしには子どもがありません」と口答えするのです。 神の約束を果たすための実子が未だに与えられていないので、財産の継承という重大事が果たせないのです。 アブラハムは憂鬱です。
◎「わたしに何をくださるというのですか」この言葉には空虚さとともに神の力を見くびっている響きがあります。何もくれていないではないか?これはもはや不平・不満です。いくら頑張ったところで結局は赤の他人に財産が渡ってしまうのだ・・・。 この後、跡継ぎを巡ってアブラハム物語は展開して行く(16章以下)のですが、神がアブラハムに示したことは何かと言うと、外に連れ出して満天の星空を見せて「あなたの子孫はこのようになる」と言われたのです。確かに美しい星空だが、なぜ約束の保障になるか?
◎それに対して「アブラハムは主を信じた」と言うのです。 聖書の「信仰による義」というものがすでにここで展開されているのです。これは驚くべきことです。
◎「契約」というのは人間世界ではお互いに守り行うべき事柄を定めます。 しかし今、神が与える約束はアブラハムには何の果たすべき義務もないのです。 神が一方的にアブラハムに与えようとされるのです。 私たちは自分になものばかりに目を注いで不平不満を言うのが常です。しかし、神は私たちが既に恵みに満たされている事、主イエスを信じるだけで良いと語るのです。



2021年11月14日  
「「主」という神の御名」《出エジプト記6章2~13節》

◎神は、奴隷状態であった神の民イスラエルを、エジプトから脱出させるために、モーセを指導者として立てられた。しかし、エジプトの王は怒り、さらに苦しい労役を課し、神の民の悲しみと怒りはモーセに向かった。モーセは、神に向かい、助けを求めた。神は、神とイスラエルの間の約束を確認し、神の名を示された。
◎神は、アブラハム、イサク、ヤコブに「全能の神」として現れたが(創世記17:1-2)、モーセに「主」という名を示された。そして今、エジプトで奴隷とされているイスラエルの人々のうめき声を聞いて、アブラハムとの間に立てられた契約を実現するために行動を起こされるのです。
◎イスラエルの人々は、厳しい現実の中で意欲を失い、 希望を失い、モーセの語る神の救いを告げるみ言葉に耳を傾けることが出来ませんでした。モーセも、気落ちし、希望を見失い、自信もなく、自分の弱さを嘆くばかりでした。
◎厳しい現実の中で、神はモーセに「わたしは主である」 という名を教えられたのです。問題の解決の道ではなく、方法でもなく、「神がどういう存在なのか」ということを教えられました。しかし、そこにこそ、問題の本質的な解決がありました。
◎神は、私たちを罪の支配から解放し、自由を与えるために、主イエス・キリストを送って下さり、救いの御業を成し遂げて下さいました。イエス・キリストの御名だけが私たちを救いに導くことのできる力をもった名前なのです(使徒4:12)。



2021年11月21日  
「主の選びの基準」《サムエル記上16章1~13節》

◎17世紀初頭、イギリスの清教徒たち(Pilgrim Fathers) が国内の宗教的圧迫から逃れるために、メイフラワー号に乗ってアメリカに移住を試みます。約 120 名ほどの人たちが乗船したとされますが、厳寒と食糧不足でほどなく半数の人命が失われます。翌年の厳冬を乗り切って収穫の季節に現地の人々と共に神様に感謝して礼拝を捧げたとされています。 これを収穫感謝祭(Thanksgiving Day)として祝いました。 私たちもこれに倣い神さまから頂いた命と豊かな賜物に喜びと感謝を分ち合う者となるのです。
◎イスラエルの最初の王サウルが主の御声に聞き従う事をしなかったが故に、王位から退けられる経緯が前15章で述べられます。 サムエルはサウル王を立てたことを死ぬまで悔います。 しかし主はそのサムエルを促して新たな王を立てる使命を与え、ダビデを選ぶために父エッサイもとへ送り出すのです。
◎指導者を選ぶということはいつの時代にあっても決して容易なことではありません。 何を基準に選ぶのか? これは私たちが最も留意しなければならない事です。 しかし、どうでしょうか。外見に重点をおいて選んでしまいがちではないでしょうか。 実はサウル王も頭抜けて背が高かった、と記されています(10:23)。
◎サムエルの選考は主の導きに従い、ダビデに行き着きます。 ダビデもサウルに負けず劣らず「血色が良く、目は美しく、姿も立派であった」(12節)とされます。 しかし、末っ子で一介の羊飼いに過ぎず、親からは期待されていませんでした。 主の選びは人間の完璧さにではなく、主の声に耳を傾ける謙虚な人物に注がれる霊と共にあるのです。



2021年11月28日  
「主の恵みの業は絶えることはない」《イザヤ書51章4~11節》

◎今日からアドベント(待降節、降誕節)です。キリストの降誕を祝う日が来るのを待つだけではありません。旧約聖書時代の人々がメシアを待ち望んだように、終末における主イエスの再臨を待ち望む期間でもあります。
◎今日の聖書箇所の前後には、主なる神は慰めてくださるお方であることが語られています。1,7節「正しさ」、 5節「正義」、6,8節「恵みの業」は、「義(「神との正しい関わり」を意味する)」とも訳される言葉です。そして 義は救いであることが示されています。Ⅰコリント1:30 使徒信条 566では、イエス・キリストが義となられたことが記されています。神は約束を必ず実現させてくださる方なのです。
◎「奮い立て、奮い立て 力をまとえ、主の御腕よ」と叫びたくなる時も、神にはどんなことでもおできになると信じ、その神の御腕にすべてを委ねるのです。神のもとから出る教えに聞くのは、神が世界の光となって、道を示してくださるからです。「見る」「聞く」といった言葉は、神の「義」と「救い」に対する信仰と密接な関係で用いられています。私たちを最善に導いてくださる主に御腕に信頼して、主がなしてくださることを待ち望むのです。
◎「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:20)。嘆き、悲しみを自分自身に向けるのではなく、世の終わりまで、いつも私たちと共におられる主イエスに向かって祈ることが出来るのです。主イエスは私たちから離れることはありません。 現在がどんなに悲惨でも、慰め主である主の救い、恵みの業はとこしえに続き、絶えることはありません。ここに、わたしたちのゆるぎない希望があります。