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阪南キリスト教会 / hannan christ church 



                   本日の説教より 

2021年12月5日  
「主の言葉が分かち合われるために」《エレミヤ36章1~28節》

◎アドベントの第二主日というのは、今から450年前の英国国教会(日本の聖公会)の祈祷書において、この日が「聖書が与えられたことに感謝する日」とされたことに因み、英国聖書協会はこの日を「世界聖書日曜日」と定め、現在に至っています。私たちが聖書を持っている、自分の日本語という言語で読むことができる、こういうことを決して当たり前と考えるのではなく、多くの方々の血のにじむような労苦の結果であるということも併せて心に留めたいのです。その意味で今日の箇所は重要です。
◎クリスマスに読まれるヨハネ福音書の冒頭は「初めに言葉があった」と始まります。 神さまの福音は言葉が書かれる事に因って伝えられてきました。 書かれなければ伝わらないのです。 当然の事と言ってしまえばそれまでです。 しかし、それは決して当然ではないのです。
◎モーセは書かれた(刻まれた)「十戒」の板を受け取りました。 神さまの教えが、書かれた文字という具体的な形を取った事により福音が前進しました。 旧約聖書は何百年にもわたり福音を伝えるために書かれ続けました。 印刷という技術もなく、パピルスや羊皮紙は朽ち果てる運命にある中で、書記官により何度も書写され続けたのです。
◎エレミヤは主の命令により、書記官バルクに神の言葉を口述させます。 それは主の神殿で読み上げられ、多くの人々の心を捉えます。 その言葉は次々と波紋を拡げ、ついにヨヤキム王の元に届きます。 しかし、彼はその巻物をナイフで切り裂き、すべて燃やしてしまいます。 エレミヤは主の命令に従い、新たにバルクに書き直させます。 主の言葉はこうして生残り、主の言葉の永遠性が証明されます。



2021年12月12日  
「神の約束の言葉に立つ」《イザヤ40章1~11節》

◎イスラエルは、神の民として神との契約を破り、民は神に対して罪を犯し、バビロンによって捕囚の民となります。そのような中にあっても、神はイスラエルを「わたしの民」、御自分を「あなたがたの神」と言われ、契約関係を破棄されないのです。「咎は償われた」「罪のすべてに倍する報いを受けた」と、罪に対する償いが十分に成され、イスラエルの民は赦され、捕囚からの解放が 待っているのです。
◎洗礼者ヨハネは、自分はエリヤでもキリストでもなく、主の道を整えるように、荒れ野で叫ぶ声だと言いました。ヨハネが自分のところに来る人々をイエス・キリストのもとに導きました。そのキリストが再び来られる時のために互いに慰め励ましをもって備える時、希望をいただくことが出来るのです(Ⅰテサロニケ4:18)。
◎すべての人は草のように枯れ、花のようにしぼむように、いつかは滅びます。その事実を受け入れて、その先にあるものを希望とするなら、慰めを受けることができます。神の言葉は、全てが枯れてしまったかのように見える中で、堅く立ち、存続し続ける。 これこそ信頼するのに値するものです。これを見つめ、これに生きる時、失望に終わることはないのです。
◎主は羊飼いとして、迷いやすい小羊を集め、その羊をふところに抱え、母羊を共に導いてくださるのです。「わたしは良い羊飼いです。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(ヨハネ10:11)。主イエス・キリストが、十字架によって 私たちの罪を赦し、解放して下さり、良い羊飼いとして、私たちを神の国に導いてくださるのです。



2021年12月19日  
「マリアはうたう」《ルカによる福音書1章39~56節》

◎「ルカによる福音書」には四つの讃歌が記されているとされます。ひとつ目が本日の「マリアの讃歌」、続いて「ザカリアの讃歌」(vss67-79)、「天使たちの讃歌」、「シメオンの讃歌」(2:28-32)と続き、短い箇所において、讃歌が埋め尽くされていることが分かります。
◎「マリアの讃歌」は「マグニフィカート」とも呼ばれますが、これは「私の魂は主をあがめ」の「あがめ」の部分のラテン語訳から採られています。 「マグニフィカート」というラテン語は本来「大きくする・拡大する」が原義です。 すると何を大きくするのか? それは「救い主である神」を大きくするということが文脈からすぐに見てとれます。
◎そのことは即ち、人間である自らを「小さくする」ということでもあります。自らの弱さ、無力さに気づいてそれに向き合い、神さまのみを高めるといことです。 私たちは自らが高慢になり、神さまを小さく(あるいは無にする)生活を悲しいことにし勝ちになっています。
◎今、世界中で悲しみが満ちあふれています。 このような中にあって、いったいどのようにしてクリスマスを喜び祝えと言えるのでしょうか? 人為的なビル火災で命を落とす人。 竜巻や台風という自然災害で命を失い、家屋や財産を失ったというニュースが先週、世界を駆け巡りました。 そして私たちはこれらの報道(事実)に対して、全く無力でしかないことに気づかざるを得ません。
◎神さまはそのような小さくされた私たちをこそ、お選びになられたのです。 「マグニフィカート」はそのような 私たちが神を讃える大いなるクリスマスソングなのです。



2021年12月26日  
「星に導かれて」《マタイによる福音書2章1~12節》

◎エルサレムの東の方からやって来た占星術の学者たちは、祭司的、政治的階級に属し、科学、農業、数学、歴 史、その他の知識を兼ね備え、王のアドバイザーとして、政治にも深く関わっていた。彼らは「ユダヤ人の王」「神の救い主」が生れたことを「星」によって知った。
◎学者たちは、遠路はるばるエルサレムにやって来て、ユダヤの新しい王が生れた場所を尋ねた。彼らの目的は、救い主を礼拝するためであった。彼らが見た「星」は、ユダヤの王の誕生を示す星だと彼らは考えた。その背景には、民数記24:17で「ひとつの星がヤコブから進み出る。ひとつの笏がイスラエルから立ち上がる」と東方の預言者、占い師バラムがメシアに関する預言を語っていたことと関係があるのでしょう。
◎それを聞いたヘロデ王は「不安を抱いた」(「動揺する、恐怖が襲う」マタイ14:36)。ヘロデはその子を殺そうと考え、祭司長たちや律法学者たちから、その地がベツレヘムだと知ると(ミカ5:1)、東方の学者たちを先に行かせた。 祭司長や律法学者たちは何の関心のもたなかったようです。救い主を尋ね求めて礼拝する異邦人の学者たちと、自分の立場が奪われることを恐れ、救い主を拒絶するヘロデ、知識を持ちながら救いに無関心な律法学者たちの姿が対照的です。私たちはどうでしょうか?
◎星は暗闇の中で輝きを放っています。 私たちは「輝く明けの明星」(黙示録22:16)であるイエス・キリストを信仰に立って仰ぎ見るならば、 どんな暗闇の中にあっても、 喜びが与えられるのです。そして、暗闇を照らす朝の光として再び来て下さり、救いを完成されるのです。