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阪南キリスト教会 / hannan christ church 



                   本日の説教より 

2022年1月2日  
「私は父の家にいる」《ルカ2章41~52節》


◎当時のユダヤ人たちにとって年3回のエルサレムへの神殿詣では律法で必須とされていました。 経済的事情で年に一度に限られる家庭も少なくはなかったでしょう。 主イエスの一家はこの年も過越祭時にエルサレムへ旅をしたのです。 12歳というのは成人の仲間入りをするという特別に大切で象徴的な年齢でもあったからです。
◎帰路、大勢の参拝客で混み合っていたとはいえ、自分の子どもを丸一日も見失ったことに両親が気づかなかったというのはやや滑稽に思えますが、彼らはあわてて引き返し、必死に探したことでしょう。 エルサレムへ引き返して三日が経った時、両親は意外なところでイエスを発見します。そこは「神殿」でした。 しかも(律法)学者たちと議論をし、賢い受け答えをしている姿がそこにありました。 ◎両親はびっくりしてこんなに「心配して探していた」のにと怒りまじりの不平をぶつけます。 これは親としては当然の反応と言えます。 しかし、イエスの反応は冷静、かつ意外なものでした。 「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」と、両親をやや小馬鹿 にしたような反応でした。 親の心配が分からないのか、と怒鳴りつけたいところですが、両親にはイエスの言葉の真の意味が分からなかったと書かれています。
◎さて本日の物語は主が成長されたという始まり(40節) と終わり(52節)に囲まれています。 私たちは肉体的には日々衰えて行きます。 しかし「「内なる人」は日々新たにされていきます。」(1コリント4:16)と語られます。 信仰の成長には終わりがない事に言及されているのです。 そしてそれが起きる場が「主の家」においてだ!という事なのです。



2022年1月9日  
「あなたはわたしの愛する子」《マルコ1章9~11節》

◎洗礼者ヨハネは罪の救い主が来られる道備えとして、人々に悔い改めの洗礼を授けていた。そこに主イエスが来られ、洗礼をお受けになり、水の中から上がるとすぐ、天から「霊」が鳩のように降った。しかしそれは、主イエスが聖霊を受け、生まれ変わって救い主となったわけではありません。
◎この時「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という神の声が、天から聞こえた。神はこの事を喜んでおられました。主イエスが罪を悔い改めなければならなかった、ということではありません。神の救いにあずかることのできない、罪人である私たちのところまで、主イエスが降りてきて下さり、私たちの様々な苦しみ、悲しみ、罪を背負い、十字架への道を歩み出されたことを喜ばれているのです。
◎私たちは罪のゆえに、神を愛することができず、自分自身、隣人を神が愛するように愛することができず、ねたみや憎しみ、互いに傷付け合う者です。その私たちの苦しみ悲しみの全てを、主イエスは私たちと共に担い、共に歩んで下さるのです。そして、十字架にかかって死んで下さり、私たちを支配している罪と死の力に対する勝利をとられたのです。
◎私たちも洗礼を受けることによって聖霊が与えられ、主イエスと共に、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と、神の語りかけを聞きつつ生きる者となるのです。その愛の中で生きていくことによって、私たちも、神と隣人を愛して生きる、み心に適う歩みへと導かれるのです。


2022年1月16日  
「主の招きに応えること」《マルコ1章14~20節》

◎最初に書かれたとされるマルコ福音書は簡潔な文体で主イエスの歩みを紹介します。 「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」。 ここに教会がなすべきワザがすべて明瞭に記されていると言えます。 一つ目は神の国の来臨を告げ、悔い改めを呼びかけ、福音を信じる事へと招くのです。 教会はそのためにあると言えます。
◎主イエスは伝道のワザを人間に委ねます。 聖書を生業とする律法学者や祭司たちが居るエルサレムではなく、辺境のガリラヤで活動を始められたイエスはガリラヤで生活をする普通の人たちに福音は届けられました。 同様に伝道のワザのために主イエスがお立てになったのはガリラヤ湖の漁師たちでした。 「湖で網を打っている」に過ぎない普通の人間です。 彼らには学問があるワケでもなく、口 が達者なワケでもありませんでした。 そんな彼らを主は 「ご覧になった」のです(16,19節)。 主が注目されたのです。
◎そこからの主イエスの呼びかけは単純です。「わたしについて来なさい」です。 唐突な呼びかけに漁師たちはすぐに従います。 彼らは「なぜ私なのですか?」と問いかけることもしません。 「私には仕事がありますから」と拒否もしません。 これは不思議な反応です。 まるで主イエスの言葉の魔法に魅せられたかのようです。
◎私たちの日常に主の呼びかけは聞こえているでしょうか? 私たちは自分の事を第一にするとき、そこに神さまの入って来る余地はありません。 私たちの中に神さまの居場所がどれほどあるでしょうか。 その居場所が広ければ広いほど、神さまの器としてより良く用いられます。 神さまが選ばれたのですから委ねるだけで良いのです。



2022年1月23日  
「福音はつながりを取り戻す」《マルコ1章21~28節》

◎主イエスと弟子たちの一行は、ガリラヤ湖の北の岸辺の町、カファルナウムに着いた。主イエスの一行は、シモンとアンデレの家に滞在し、ガリラヤ宣教の拠点となりました。安息日に会堂で、礼拝の中で教えられました。
◎主イエスの教えを聞いた人々は非常に驚きました。律法にはこう書いてある、だからこうしなさい、という教えではなく、神の方へと向きを変え、神に従って歩む者となることを求められたのです。神による救いの恵みを受け入れ、神の救いにあずかることです。
◎この驚きの中、新たな驚きが起こります。汚れた霊に取り憑かれた一人の男が叫びました。「かまわないでくれ」と、主イエスの権威ある言葉に反発し、敵対したのです。汚れた霊(悪霊)は、人の理解や力を超えた事柄、不安や恐れを利用して、私たちと神、また人同士の関係を引き離そうとしているのです。
◎主イエスは汚れた霊をお叱りになり「この人から出て行け」とお命じになると、汚れた霊は出て行った。主イエスは裁きを告げられたのではなく、神とのつながりを、 人との交わりを取り戻されたのです。
◎主イエスは、悪霊に支配され、神に敵対する罪に陥っている私たちのために戦って下り、私たちの全ての罪を背負い引き受けて、十字架にかかって死んで下さったのです。この主イエスの十字架の死によって、罪の赦しが実現したのです。主イエスの権威は、この十字架の死において、そして父なる神様がその主イエスを死者の中から復活させ、永遠の命を生きる新しい体を与えて下さったことにおいて、あらわになりました。



2022年1月30日  
「手を差し伸べる主」《マルコ1章40~45節》

◎「イエスが深く憐れんで」とあります。 この語(憐れんで)を「怒って」と訳す写本があります。主イエスの憐れみには「重い皮膚病」(原語=ツアーラハト)を忌避、排除する律法と当時のユダヤ社会に対する怒りが含まれていたと考えられます。 この病人は悲嘆と孤独の中にあったことは確実です。 他人を汚す事(感染)を避けるために自ら警告を発せねばならなかったとされるからです(レビ13:45)。 ◎人々はその人を治療するよりも隔離を選びます。 原因不明の病いの治療法など存在しなかったからです。 その病気が治ったように見えても、社会への復帰がすぐに叶うワケではありません。 祭司が「清い」と宣言するまで共同体に戻ることは許されなかったのです。
◎主イエスは「手」を差し伸べて、その人に触れます。 この「手当」という行為は主イエスが汚れる(感染する)という危険を冒すことでもあります。 しかし主はその危険を冒してでもその人を癒やされることを選ばれました。そして彼を社会へ帰されます。(「放り出す」という強い原語) あとは、彼が主体的に祭司のところへ行って「清い」という宣言を受ける努力をしなければなりません。
◎主イエスが何故、彼に「喋るな!」と箝口令を強いたのか謎のままです。 しかし、彼はその禁を破ります。 祭司のところに行ったかどうかも分かりません。 善意に解釈すれば嬉しくて仕方なかったのでしょう。 喋らずにはいられなかった。 しかし、そのことは主イエスを困らせる結果になります。 病いを癒やされるとの評判は、かえってイエスを町から荒野へと追いやることになります。 主の宣教は前途多難でもあるのです。