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阪南キリスト教会 / hannan christ church 



                   本日の説教より 

2022年3月6日  
「神の福音を宣べ伝えるために」《マルコ1章12~15節》

◎マルコ福音書を連続的に読んでいる事はお気づきと思いますが、レント(受難節)に入ってその冒頭の部分に戻ってきました。 マルコは「神の子イエス・キリスト」(1:1)を立証するために書かれた最初の福音書です。 本日の15節までが福音書の「序章」とされます。 主イエスはヨハネよりバプテスマを受けるためにガリラヤから出てきます(1:9)。
◎マルコの記述はとても簡潔です。 「あなたはわたしの愛する子」(1:11)とのお墨付きを得たイエスが向かった先は「荒れ野」でした。 「送りだした」とありますが半ば強制的に 「追いやった」(口語訳)がより正確です。 「四十日間」はエリヤの試みを想い起こさせます(列王上19章)。 主も人間と同じ苦しみを経験なされた事は私たちに試練に立ち向かう勇気を与えてくれます。 出エジプトの民は荒れ野で40年過ごしました。 人間が通過しなければならない荒れ野が私たちにもあります。 それは避けられません。 主はお手本を残されました。 野獣と共存されたと言うのです。
◎ガリラヤから出て来た主イエスは、試練を受けた後、再びガリラヤへ戻ります。 そこは誰にも注目されない辺境の地でもありました。 ナザレはなお辺鄙な場所です。 しかし、家族の住むその町から主イエスの宣教のワザはスタートしたのです。 人それぞれに召された地があるのです。
◎今までの時間の流れとは全く異なる「時は満ち」たのです。 その「時」は主イエスによって始められます。 「神の国」は主イエスの十字架の愛と復活によって与えられる神様の平安が支配する世界です。 争いと分裂が支配する世界(まさに今の世界!)から、神の支配へ移るために、私たちに求められる事、それは「悔い改め」と「信仰」なのです。



2022年3月13日  
「主イエスが住み家」《マルコ3章20~30節》

◎ガリラヤ地方を巡回し、神の国の福音を宣べ伝え、悪霊を追い出し、病気を癒しておられた主イエスが、(シモンとアンデレの)家に帰って来られた。すると群衆がまた集まり、休む間もなく、主イエスは対応されました。主はいつも私たちを迎え入れ、受け止めて下さるお方です。
◎主イエスの身内の者たちが、「気がおかしくなった」との人々の噂を聞き、主イエスを取り押さえようとやって来た。またエルサレムから下って来た律法学者たちは、主イエスの働きが、悪霊の頭「ベルゼブル」によるものだと語った。
◎「ベルゼブル」は旧約聖書で「バアル・ゼブブ」と呼ばれ、新約聖書では、この言葉はサタンと同じ意味で使われています。「サタン」とは、神に敵対する者を指します。「まず強い人を縛り上げなければ・・・」と主イエスご自身がサタンを縛ることができる強いお方なのです。サタンはすでに敗北した敵です(1:12-13)が、新しい天と新しい地の完成まで(黙示録21:1-7)、この戦いは続きま す。しかしそれは、サタンや罪がもたらす力に恐れ生きるのでなく、神様に愛され生かされ、喜びをもって神様に従い仕える歩みなのです。
◎「聖霊を冒涜する者」とは、主イエスの宣教が聖霊の働きと認めず受け入れない者のことです。血筋や知識によって主の家族となるのではありません。主イエスこそ神様から遣わされた救い主であり、そこに神様の救いの恵みが、聖霊の力が働いていることを信じるならば、主イエスが家の主人となり、私たちは主イエスの家族となるのです。



2022年3月27日  
「主イエスに聞き従う」《マルコ9章2~10節》

◎8章のペトロの信仰告白と最初の受難予告から六日後、主イエスの姿が変わるという出来事(主の変容)が起こりました。それは栄光に輝く姿でした。それは、詩編104:1-2に表される神の姿に似ています。主イエスが何者であるかを示され、神の目的が明らかにされたのです。
◎エリヤがモーセと共に現れ、主イエスと語り合った。 ルカ福音書では、エルサレムでの最期について、話していたとあります。モーセは律法を代表する人物、エリヤは預言者を代表する人物です。「律法と預言者」すなわち(旧約)聖書に記された神の計画の中に、イエスの受難と復活があることを示されています。そして主イエスは、十字架の苦しみを通して栄光に入られるのです。
◎「これはわたしの愛する子」はマルコ1:11でも語られました。今、この声は弟子たちに対して主イエスが何者であるかが語られ、さらに「これに聞け」と応答を求められるのです。主なる神が、この人は私が愛する私の子である。律法と預言者よりも権威のある彼の話を聞きなさい、と語られたのです。「聞く」とは、ただ声を耳で聞くという意味だけでなく、聞き従うことを意味します。 ◎主の変容は受難のイエスに従うよう弟子たちを励ますものでしたが、主イエスが逮捕されたとき「弟子たちは 皆、イエスを見捨てて逃げてしまった」(14:50)と、弟子たちは従うことができませんでした。弟子たちは、主イエスの死と復活が起こった後で、本当の意味で理解し、従う者となりました。「心に留めて」「論じ合い」ながら、彼らはさらに知っていくようになりました。そしてこの世の成功ではなく、十字架の中に輝きを見い出すのです。