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阪南キリスト教会 / hannan christ church 



                   本日の説教より 

2022年9月4日  
「異邦人の光としての地の果てへ」《使徒言行録13章44~52節》

◎この13章からパウロの第1次伝道旅行が始められた事については前回述べました。 この伝道旅行は出発地のアンティオキアに戻って来るまで(14:26~27)、短くても足かけ2年以上に及んだと考えられており、移動距離は陸路で約1,150km、海路で約1,050kmと見積もられています。 移動手段の限られていた当時(徒歩か船)、移動だけに要する日数も馬鹿にならず、費用に限らず体力にも相当な負担がかかったと容易に想定されます。それでもパウロとバルナバ一行(マルコ・ヨハネ(12:25)は途中で離脱)を突き動かしていたモノとはいったい何だったのでしょうか?
◎宣教への情熱と教会形成が根底にあったことはもちろんですが、彼らにはもう1つの重大な使命がここで開かれて行くのです。 それはユダヤ人を対象とした伝道から「異邦人」を対象にした伝道へとはっきりと軸足を移して行かざるを得なかったことです。
◎パウロたちの宣教が大きな成果を見せるのを見たユダヤ人たちの一部は自らの「妬み」から、パウロたちに激しくののしり反対します(45節)。 それに対してパウロたちは「神の言葉は、まずあなたがたに語られるはずでした。 だがあなたがたはそれを拒み・・見なさい、わたしたちは異邦人の方に行く」(46節)とユダヤ人に絶縁宣言をするのです。
◎これは決して簡単な決断ではありません。 しかし、より大きな目的のためには犠牲にせざるを得ないモノ(人、物)もあることを私たちは受け止めなければなりません。自らの同族・身内を見限ってとはいっても、昨今の旧統一協会のような金銭が動機では話しになりません。 「あなたを異邦人の光と定めた」 との御言葉の約束(イザヤ 42:6)と聖霊の導きこそが祝福に至ることを忘れてはなりません。



2022年9月11日  
「愛を追い求める」《Ⅰコリント12章27~13章13節》

◎聖霊が与えてくださる賜物は、人によって異なり、私たちの個性が生かされ、互いに支え合い、一つのキリストの体である教会を形造るのです。さらにパウロは「あなたがたはもっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい」と勧めます。この「愛」とは、聖霊によって与えられる最高の賜物としての「愛」です。
◎しかしそれは、他の賜物と比較して「最高」なのではなく、本質的に異なるものだということです。「預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れ」いくものであるが、「愛は決して滅びない」特殊な賜物なのです。あれが出来る、こんな力がある、という賜物は、いつか失われてしまうものです。そのような「部分的なもの」は「完全なもの」が来たときには廃れるのです。私たちが持っている様々な賜物は、部分的なものであり、廃れていくものです。しかし愛だけは、決して滅びない、廃れることはないのです。
◎この愛は私たちが持っている愛ではなく、聖霊が与えてくださる愛です。滅びることのない愛とは、主イエス・キリストにおける神の愛です。聖霊によって私たちは、神の独り子イエス・キリストにおける滅びることのない完全な愛を知り、この完全な愛によって愛されていることを知らされるのです。
◎この地上を生きる限り、私たちが神を知る知識も、神と人を愛する愛も不完全です。しかし私たちがどれほど不完全な者であっても、神は私たちのことを完全に知っていてくださり、完全な愛をもって愛していてくださるのです。滅びることのない愛を賜物として受け取るとき、神を愛し、人を愛するものとなるのです。



2022年9月18日  
「この福音でなければ」《ガラテヤ書1章1~10節》



2022年9月25日  
「恵みを満ちあふれさせる神」《Ⅱコリント9章6~15節》

◎パウロはⅡコリント8-9章において、エルサレム教会への献金を訴えています。エルサレム教会は、迫害の中で生活し、経済的にも困窮していたのです。そのようなエルサレム教会を異邦人教会が助けることこそが、ユダヤ人と異邦人の和解の証となり、一つの教会となるとパウロは信じて、献金を訴えるのです。エフェソ2:14でパウロは、ユダヤ人と異邦人の間の敵意という壁をイエス ・キリストが取り壊されたのであると語っています。
◎パウロは献金を種まきにたとえています(箴言11:24-2 使徒信条5に似た表現)。しかしながら、パウロは「献金」のことを金銭を表す言葉を用いていません。「慈善の業」(8:6,7,19)は「恵み」、「奉仕」(8:4、9:1)は「貢献」「参加」、「募金」(8:20)は「豊かさ」、「贈り物」(9:5)は「祝福」、「奉仕の働き」(9:12)は「公の奉仕」「礼拝」、「施し」(9:13)は「交わり」を意味します。これらは神の性質でもあり、与えることは、神の愛・恵みのあらわれなのです。
◎気前よく、喜んで与える者には、神が豊かに報いてくださり、神の恵みは満ちあふれ、何の不足もなく、善き業にあふれさせてくださるとパウロは語ります。しかし神は「おできになる」のであって、いつでもかならずそうなるとは言っていません。報酬を期待するような行為ではないのです。
◎この奉仕の業によって、人々が神に栄光を帰し神を賛美するようになるのです。そしてこの贈り物を最初に下さったのは、神ご自身であることを忘れてはなりません。 救いの恵みを与えてくださり、満ちあふれさせれくださる神への感謝から、神への愛、隣人への愛の行為が流れ出て、神の栄光があらわされるのです。