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阪南キリスト教会 / hannan christ church 



                   本日の説教より 

2022年10月2日  
「たった一度だけのあがない」《ヘブライ9章23~28節》

◎『ヘブライ書』は種々の点で「旧約聖書」とのしっかりとしたつながりを意識させてくれます。 それだけでなく、なぜ「新約聖書」が存在するのかという意義をより深く説明してくれている点に最も重要なのです。 本日の箇所は解釈が難しいですが、「旧約聖書」の「大祭司」の役割に先ず注目する必要があります。 それは「大祭司が年ごとに自分のものでない血を携えて・・・」(25節)に、「年ごとに」、すなわち、毎年、「自分のものでない血」すなわち、動物による犠牲の血に拠って同じ事を「あがない」として繰り返さなければならないことにあるというのです。
◎それとまったく対照的なのが「世の終わりにただ一度、ご自身をいけにえとして捧げて罪を取り去るために、現れて」(26節)くださった主キリストです。 毎年、同じ事を繰り返し続けることで「罪のあがない」が完成すると信じるのが「旧約聖書」の宗教です。 そしてそれには終着点=救いが永遠に達成されないことになってしまいます。 旧約宗教の限界がここにあるのです。
◎「新約聖書」では旧約聖書の終わりのない繰り返しをたった一度のだけのあがない、すなわちイエス・キリストによる十字架の血潮による自らのいのちの犠牲によって完成させたのです。 しかし、人間は肉体的には死にます。 イエス・キリストは復活を通して永遠のいのちへ至る道をもお示しくださったのです。
◎信仰とはイエス・キリストが罪の赦しだけで終わらずに、永遠のいのちに至る道をすら示してくださったこの十字架のあがないと復活の希望を単純に信じることです。そんなことあり得ないと嘲られようとも、このおかた、イエス・キリストを主として信じ抜くことなのです。



2022年10月9日  
「キリストによる栄光の希望」《コロサイ1章21~29節》

◎コロサイの町は小アジアのリュコス川沿岸にありました。パウロの第三次宣教旅行の途中エフェソに滞在していた時に、パウロがコロサイ出身の異邦人エパフラスに福音を語り、彼は信仰に入り、パウロの協力者となり、パフラスが、コロサイに福音を伝えました(4:12、1:7)。この若い教会に、律法主義、神秘主義、哲学などが混じり合った偽りの教えが起こっていました。
◎パウロは、キリストを信じて救われている信徒が、福音の希望から離れず、すべての人がキリストに結ばれて完全な者(成熟した者)となるように、労苦しているのです。しかしそれは、パウロの内に力強く働くキリストの力によって奮闘しているのです。
◎パウロは教会のために苦しむことを喜び、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしている、と語ります。キリストの十字架と復活では、わたしたちが救われるのに不十分だということではありません。キリストの苦しみによって始まった神の国が、完成へと向かっている途上にある今、産みの苦しみをしているということです。教会はキリストの体です。キリストは教会の痛みをご自身の痛みとして感じておられ、また必要を満たしてくださるお方です。
◎「あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です」とあるように、わたしたちの内に共にいてくださるキリストこそがわたしたちにとって、栄光の希望になるのです。主イエスが栄光の体に復活されたように、私たちにも復活の栄光が待っているので、私たちがどんなに暗い中にあったとしても、栄光の希望に満たされることができるのです。



2022年10月16日  
「神の刻印を押された者たち」《ヨハネ黙示録7章1~4,9~17節》

◎お世辞にも親しみやすいとはとても言い難い『ヨハネの黙示録』ですが、その表現はたくさんの表徴に満ちており、読み進めるには相当な想像力が必要となってきます。本日の箇所の中にも、天使・大地と海(自然)・(額に)神の刻印・白い衣を着た者たち、等々があらわれます。そしてそれらは解釈の大切なキーワードとなっているのです。
◎重要なポイントとしてまず人間には二種類の人たちが存在すること、すなわち「神の刻印を押された人たち」と「獣の刻印を押された人たち」(黙13:16、14:9←エゼ9:4,6に由来)です。 前者は「命の書に名を記された人たち」(黙20:12、21:27)とも言及されるのですが、本日の箇所の後半には「白い衣を着た者たち」(9,13節)と別名で呼ばれる人たちがいて、「獣の刻印を押された人たち」と区別されていることに注目しましょう。彼らは国、民族、言語によって平等に差別されずに集められています。 大切な点は、彼らがそのように呼ばれる資格を得ているのは、富や名誉の故ではありません。 まったく無条件に「その衣を子羊の血で洗って白く」(14節)していただいたからなのです。「血で洗って白く」するとは全く矛盾する、あり得ない表現です。
◎しかし、言うまでもなくキリストの贖罪とは、私たちの罪という真っ黒なものを十字架の血潮によって真っ白にするという不可能を可能とする出来事なのです。 私たちは自らをキリストの血潮に浸すだけで真っ白にしていただくことができるのです。
◎「神の刻印」あるいは「白い衣」とは終末の裁きの場において、たとえどのような 「大きな苦難を通って」(14 節)いようとも、「玉座の前にひれ伏し、神を礼拝」(11 節)するキリスト者に与えられる栄誉であり、特権なのです。



2022年10月23日  
「苦難の中に共におられる神」《ヨブ記38章1~18節》

◎ヨブ記の主人公ヨブは「無垢な正しい人で、神を恐れ、悪を避けて生きていた」(1:1)。彼は神を信頼し、祝福されて多くの子供と健康、豊かな富が与えられていた。しかし、ヨブはそのすべてを失い、恐ろしいほどの苦しみに遭います。
◎ヨブと親しい三人がヨブを見舞い慰めに来ますが、ヨブの激しい苦痛を見ると話しかけることも出来ず、七日後にヨブは口を開き、自分の生れた日を呪います。そこへもう一人の友人エリフが現れ、ヨブに対しても、ヨブに反論できない三人に対しても怒り、ヨブの神への問いかけは高ぶりとして非難するのです。エリフの語るところは教理的に間違ってはいないのですが、神に呼び求めても答えられず、神との交わりを断たれたのではないかと苦悶するヨブを納得させるものではありませんでした。
◎神は今まで沈黙を続けていましたが、その全能の力と愛をもってヨブの前に現れ、彼に答えてくださいます。しかしそれは、ヨブに考えさせることによって、自ら答えを出させようと質問の形で語られます。ただそれも、神はヨブが質問に対して返答することよりも、自らの無思慮を認めることを期待しておられるのです。苦しみはどんなに小さなものであれ、神の経綸(助言、計画、目的)の中では、神の複雑なみこころの内にあって起こっていることであることを、知らされるのです。 ◎義人がなぜ苦しむのかという問いに対する直接の答えは得られていませんが、ヨブは神に対する疑いや非難から解放され、神を信頼する者へと変えられたのです。神とキリストの愛は、変わることなく私たちに注がれ、どんな苦難にも勝利させてくださるのです。



2022年10月30日  
「神と共に歩んだノア」《創世記9章8~17節》

◎創世記6章から9章にかけて、ノアの箱舟の物語が記されています。地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのをご覧になった主なる神様が、人を造ったことを後悔し、人も獣も滅ぼすことを決意なされます。しかし、ノアとその家族は、主の好意を得て、神はノアに箱舟を造ることをお命じになり、そこに家族と全ての獣や鳥たちを入れ、神の審きである洪水から生き延びることが出来るようにして下さった。
◎洪水が終わり、ノアとその家族が箱舟を出て、新しい生活を始めるにあたり、神はノアとその家族に、創世記1:28で人間に与えられた祝福と同じ言葉を与えられた。人が生きていることが恵みであり、良いことであると告げられたのです。
◎ノアの箱舟の物語には、人間の罪に対する神のきびしい審きがあらわされています。しかし、父なる神はその裁きを御子イエス・キリストに負わせることによって、わたしたちを滅ぼすのではなく、罪を赦し、罪と死の支配から私たちを救い、主がノアと結ばれた契約にある「肉なるものをすべて滅ぼすことは決してない」という約束を守られているのです。
◎ノアは神の言葉に従い、神と共に歩みました。神はノアとの間に契約を結ばれ、そのしるしとして雲の中に虹を置かれました。それは神と人との間の平和のしるしでもあります。この祝福が、主イエス・キリストを通して私たちにも流れ、私たちは神と共に歩む新しい道へと導かれるのです。私たちに与えられた人生を良いものとして喜びつつ、平和を追い求め、主から希望をいただいて 歩んでまいりましょう。