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阪南キリスト教会 / hannan christ church 



                   本日の説教より 

2022年12月4日  
「すべての者、来るが良い」《イザヤ55章1~13節》

◎バビロン捕囚という絶望と困窮の中にあるイスラエルの民に真の回復の希望を与えるモノとは何か? 人々は深い傷を負って分断されています。 故郷に帰還できると考える人すらも少なくなってきました。 しかし主はイザヤを通して呼びかけます。 「価を払うことなく」(1節)肉体の糧のみならず「魂はその豊かさを楽しむ」(2節)と言うのです。
◎その条件のひとつは「聞け、イスラエルよ」(申命記6:4)にあるように主の言葉にただひたすら聴き続ける事です。なぜなら「聴く」事を辞めた結果がこの捕囚という審きを受けることになったのであり、それは神の御心であったのですが、それでも神さまはそのような罪深い民を決してあきらめず、モーセがなしたように「新しい出エジプト」を断行しようとされるのです。
◎二つ目の条件は「主を尋ね求めよ、・・呼び求めよ」(6節)です。「わたしの先祖は、滅びゆく一アラム人」(申命記26:5)であることを心に刻むために、信仰告白をするのですが(私たちの『使徒信条』)、そのような者であるにもかかわらず「宝の民」(申命記7:6,26:18)とされたのです。 あえて何も持たない者を選んで御言葉の民とされたのです。
◎条件の三つ目は「主に立ち帰る」(7節)ことです。 これは聖書全体を通してどの預言者も追求した最大の主題のひとつです。 「神さまの思い、神さまの道」(8 節)と私たちのそれらが違うことは当然としても、その道にどのようにしたらたどり着けるのか? 10 節の美しい比喩は神さまの言葉そのものの性格を言い表しています。 「わたしの口から出るわたしの言葉」(11 節)こそ、「荒れ野に主の道を備えよ」 (イザヤ 40:3)とされる「福音として告げ知らされた言葉」(1 ペトロ 1:25)であり、十字架の贖罪に通じる道なのです。



2022年12月11日  
「神の愛によって新たに!」《ゼファニヤ3章14~20節》

◎アドヴェント【「到来」の意味】は単に主イエスを待ち望むという受け身の姿勢で終わるのではなく、主イエスをこの世に遣わされた神さまの愛をより深く心に刻む時としなければなりません。
◎「ゼファニア書」は本文も短く、他の預言書に比して採り上げられる事の少ない書ですが、その長短にかかわらず、旧約において焦点が当てられているのは、罪の結果としての滅亡とそこからの回復です。
◎ヨシヤ王(1:1)の時代(前640~604年)は北にアッシリアという大国の存在があって、常に存亡の危機に面していました。 人びとはそのような中で、バアルや偶像に仕える神官・祭司(1:4)、天体崇拝やミルコム礼拝(1:5)等の異教礼拝に頼ったり、また隣国のエジプトに援軍を求める等、誤った方向に国が進もうとしていました。 神はゼファニアを通して、「主の(大いなる)日」(1:7,14等)で容赦なき審判がくだされることを示されました。 「主に信頼せず、神に近づこうともしなかった」(3:2)当然の結果です。
◎今、なさねばならないことは「主を求めよ。・・・義を求め、謙遜を求めよ。」(2:3)との預言者の叫びを受け止める事なのです。 主は卑しめられ虐げられた主の民の中から、「貧しい者、弱い者を残」(3:12)
され、その「イスラエルの残りの者」(3:13)をこそ用いて救いのワザを達成しようとされます。
◎「喜び歌え。・・・喜びの声を上げよ。喜び祝え。」(14節)と喜びで始まる本日の聖句はまさに主を待望する喜びに満ちあふれています。 何故なら「王なる主はあなたのただ中におられる」(15,17節)と約束されるからです。 それは「愛をもってあなたを新たに」(17節)される力があるからです。 到来される主を待ち望む私たちは、それ故に希望を抱けるのです。



2022年12月18日  
「残った切り株からメシアが」《イザヤ11章1~10節》

◎エッサイはダビデ王の父の名、ベツレヘムの羊飼いであり、ボアズとルツの子孫です。株は切り株を意味します。ユダ王国は滅びるが、残された切り株から、「ひとつの芽」「若枝」が生え出て来る、すなわちメシアが生れて来ることを預言しているのです。また「若枝」という言葉は「ナザレ」の語源になったと考えられています。
◎若枝から出るメシアは、他の預言書も見てゆくなら、エレミヤ23:5では、王として来られるメシヤが、ゼカリヤ3:8では、しもべとして来られるメシヤが表されています。ゼカリヤ6:12には、人として来られるメシア、イザヤ4:2には、神としてのメシアが表されています。このメシアが世の終わりに再び王の王、主の主として来られるのです。
◎私たちの人生においても切り株しか残っていないように見える時があることでしょう。しかし、神はその切り株からも新しい芽を生えさせ、若枝を生え育ち、実を結ぶようにしてくださいます。どんなに切り倒され、さげすまれても、神は決してあなたを見捨てるようなことはなされず、必ず回復させてくださるのです。



2022年12月25日  
「地には平和」《ルカ2章1~20節》

◎本日の聖書箇所のルカ2:14には「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」とあります。主イエスが旧約聖書で預言されていた救い主として来て下さり、私たちに平和が与えられることが語られています。「平和」とは愛と秩序のある穏やかな状態です。「御心に適う人」とは、神が御子イエスによって私たちに罪の赦しと救いが与えられたことを信じ、主イエスを救い主と受け入れて歩む者です。
◎この神の御子イエスによって与えられる平和とは何でしょうか。まず天地の創造主である神との平和です。私たちが罪と不信仰の中にあるのなら、神との間に平和はありません。神は私たちを憐れみ、御子をこの世に遣わし、独り子を十字架につけ、私たちの罪を赦して下さる道を用意して下さったのです。御子イエスを救い主と信じる者に、神は裁きくだされず、私たちの味方となって下さり、永遠の父となって下さいます。
◎さらに私たちには、自分自身との間に平和が与えられるのです。私たちは自分自身の失敗や弱さによって、自分に怒り、自分を赦せなくなり、自分を受け入れられなくなるのです。しかし神は、そのような私をも愛し、罪も弱さも受け入れてくださり、罪を赦し永遠の命を与え、新しい恵みの中を歩む者へと造り変えてくださるのです。
◎そして、私たちには人との平和が与えられます。私たちが愛することの難しい者をも、神は愛し、救いを望んでおられます。自分自身が神から愛されていることを知ってゆくことによって、私たちが神の愛をもって平和を創り出してゆくことができるのです。キリストによって与えられる平和によって、私たちに平和が築かれ、この世界に平和が広がって行くように祈ってまいりましょう。