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阪南キリスト教会 / hannan christ church 



                   本日の説教より 

2023年2月5日  
「種を蒔く人のたとえ」<ルカ8章4~15節>

◎主イエスは種を蒔く人のたとえ話を語られた後、「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われました。これは「聞きつづけなさい」ということです。蒔かれた種(神の言葉)は、聞く人がどのように応答するのかによって実を結ぶかどうかが変わるのです。私たちの人生の上に試練が襲うことや、思い煩いに苦しむこと、富や快楽に心を奪われることもあります。土地は自分で変わることはできなくても、農夫の手にかかれば、良い地へと変えられます。
◎主によって、土地が畑地に変えられるように求めましょう。さらに、畑がよく耕され、手入れをして欲しいと祈りましょう。自分の罪や弱さを認めて悔い改め、わたしたちの心が変えられ、誘惑に遭わせず悪より救い出してくださいと祈り続けましょう。種に力がないのではなく、蒔く人の腕が悪いのでもなく、主イエスに委ねるなら、どんな土地であっても主イエスの復活の力で実を結ぶように、土地は造り変えられ、きよめられるのです。



2023年2月12日  
「主の癒しと救い」<ルカ5章12~26節>

◎主イエスがある町の重い皮膚病にかかった人を癒やされた。主イエスは病を患っていた人に、このことを誰にも話さず、律法に従って病が清められたことを証明するように言われた。主イエスは癒やされた人が神様との交わりを回復することを願っておられたのです。主御自身もこの後、町を出て人里離れた所で祈りをささげ、神とも交わりの時をもたれました。
◎また主イエスがある家の中で教えられていたとき、中風の人の罪を赦し、病を癒やされ、主御自身の権威を示されました。中風の人は神を賛美しながら家に帰り、集まっていた人々も神を賛美し始めました。
◎主イエスは罪による死の病の中にある私たちを癒し赦し救うために十字架にかかり三日目に復活なされました。主は私たちに永遠の命へのご計画を持っておられます。この赦しと救いをいただいて、神を愛することを大切にして歩み続けてまいりましょう。



2023年2月19日  
「神とのつながり、人とのつながり」 <ルカ9章10~17節>

◎本日の聖書箇所の前の9:7-9には、領主ヘロデが主イエスの色々な噂を聞き、イエスとは何者であるかを知りたいという強い願いを抱いたことが記されています。また9:18-20には、主イエスご自身が弟子たちに対して、わたしを何者だと言うのかと問われ、ペトロが「神からのメシアです」と答えています。
◎この「主イエスとは何者か」という問いに対する答えが、五千人に食べ物を与えられた奇跡の中にも示されています。弟子たちは、主イエスと出会い、従いました。主イエスによって遣わされ、神のみ業のために用いられ、素晴らしい体験をしました。それはまた、「この方はどなたなのだろう」(8:25)「主イエスは何者なのか」ということが深く問われることでもありました。
◎弟子たちと同じように私たちも主イエスに従い、主イエスと共に歩み、主イエスに仕えていく中で、主イエスはどういうお方なのかを知らされて行くのです。ヘロデは主イエスを知ることなく戸惑うだけでした。一時の満腹を味わうだけでは、主イエスを十分に知ることはできません。
◎9章16節で主イエスがパンと魚を取り、賛美の祈りを唱え、弟子たちに裂いて渡された姿は、後の最後の晩餐(22:19)やエマオに向かう弟子たちのとき(24:30)とほぼ同じです。いのちのパンは裂かれて分かち合うために与え られました。十字架と復活の主イエスのもとに、本当の豊かさがあり、本物のいのちがあるのです。そして私たちの罪を赦し、神とのつながりを回復し、人とのつながりも回復を与えて下さるお方なのです。



2023年2月26日  
「荒れ野の誘惑」 <ルカ4章1~13節>

◎主イエスは洗礼者ヨハネから洗礼(バプテスマ)を受けられた後、聖霊に導かれて荒野で四十日を過ごされ、悪魔の試み(誘惑)にあわれました。悪魔による三度の誘惑は、主イエスを「神の子」である救い主としての歩みから、十字架への道から引き離そうとしているのです。
◎主イエスは、悪魔の誘惑を三度とも申命記のみ言葉を用いて、退けられました。聖書の言葉(神のことば)は、私たちにとっても、誘惑や試みと戦い、打ち勝つための武器となるのです(エフェソ6:17)。神の子である主イエスが、私たちと同じ人となってこの世を歩んで下さり、そして悪魔の誘惑を受け、聖霊の導きの中で主の御言葉に信頼し、打ち勝って下さったのです。
◎信仰において大切なことは、神を試して、確かめてからではなく、神に信頼して自分を委ねて歩むことです。悪魔は私たちに対しても神から引き離そうと誘惑を試みてきます。主イエスが神を信頼し歩まれたように、私たちもまた神に信頼し誘惑を退け、主なる神を拝み、ただ主に仕えて歩むのです。
◎荒れ野の誘惑を退けた主イエスが、神の子としての歩みを、十字架の死に至るまで歩み通して下さったことによって、私たちにも、神の子として悪魔の誘惑を退けて生きる道が開かれているのです。「それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです」(ヘブライ2:17-18)。