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阪南キリスト教会 / hannan christ church 



                   本日の説教より 

2023年4月2日  
「十字架につけられた王」<ルカ23章32~49節>


◎主イエスは二人の犯罪人が一緒に十字架につけられ、主イエスが真ん中に、一人は右に、一人は左に、十字架が並んだ。十字架刑は苦痛に満ちた、最も残酷な処刑でしたが、それに加えて主イエスは辱められ、侮辱されたのです。
◎主イエスを十字架につけた人々は「自分を救えない者がどうして人を救えるのか」と十字架刑に処せられるような人物は、救い主でも王でもないと罵ります。私たちは、神はなぜ今救ってくれないのか、愛や恵みの力をなぜあらわしてくださらないのと感じることがあります。主イエスは自分を十字架につけた人々のために、彼らが何をしているのか、何が起っているのかを知らないのです。だから彼らを赦してくださいと祈られました。
◎主イエスは十字架の上で、救いも助けも恵みも愛も見いだすことの出来ない苦しみと悲しみの中におられました。私たちが救いの見えない苦しみの中で絶望を覚える時にも、十字架につけられた主イエスが共にいて下さるのです。主イエスが自分を救うのではなく、私たちの罪を背負って苦しみと死を引き受けて下さったからこそ、私たちが赦され、救われる道が開かれたのです。
◎主イエスは、捕えられ、裁かれ、死刑の判決を受け、鞭打たれ、十字架に釘づけられ、人々の侮辱、嘲り、ののしりを受けつつ十字架の上で死なれました。その十字架の上で、嘲っている人々のための赦しを、主イエスは父なる神に祈って下さいました。私たちは、この主イエスの十字架の上での執り成しの祈りによって、赦され、新しく歩み出すことができるのです。



2023年4月9日  
「主は生きておられる」<ルカ24章1~12節>

◎週の初めの日の明け方早く、主イエスの遺体に香料や香油を塗って丁重に葬りたいと主イエスがガリラヤで宣教されていた頃から従い仕えていた女性たちは主イエスが葬られた墓に行った。すると、墓の入り口を塞いでいた石がわきに転がしてあり、墓の中に主イエスの遺体が見つからず、彼女たちは「途方に暮れていた」。
◎彼女たちは、天使から主イエスが復活され、生きておられることを告げられた。ますます途方に暮れた彼女たちに天使は、主イエスがガリラヤで「罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている」と話されたことを思い出しなさいと告げ、「婦人たちはイエスの言葉を思い出した」のです。
◎主イエスの言葉を思い出した女性たちは、主イエスの弟子たちや従ってきた人々の所へ行って彼女たちが見聞きしたことを「一部始終を知らせた」。使徒たちはこの話をたわ言のように思い信じなかった。しかしペトロは墓へ走って行き確認した後、驚きながら家に帰った。主イエスの復活を知った者たちは「信じた」「喜んだ」といった積極的な応答はまだ起こっていません。
◎疑い、迷い、見当違いが起こる私たちですが、そのような現実の中から、主イエスとの出会いへと向かってゆくのです。私たちは聖霊が神のみことばを思い起こさせてくださることを忘れてはなりません(ヨハネ14:26)。主イエスの語られた言葉が、今のわたしたちの現実の中に生きている言葉として働き、導いてくださるのです。復活して今も生きておられる主イエスが出会って下さることを信じ、祈り求めつつ歩んでまいりましょう。



2023年4月16日  
「心の内が燃やされて」<ルカ24章13~35節>

◎二人の弟子たちは、主イエスが捕らえられ十字架にかかり死んでしまったという衝撃と悲しみ、失意のうちに、論じ合いながら、エマオという村へと向かって歩いていました。
◎そんな彼らに「イエスご自身が近づいてきて、一緒に歩き始められた。しかし、弟子たちの目は遮られていて、イエスとは分からなかった」のです。弟子たちは苦しみや悲しみの真っ只中にいたので気づきませんでしたが、後になってから主イエスが弟子たちと共にいて下さったことに気づくのです。
◎主イエスは弟子たちが論じ合っていたことを、聖書全体から御自身について書かれていることを説明された。彼らは目指す村に近づいたとき、先に行こうとされる主イエスに「一緒にお泊りください」と無理に引き止めた。「一緒にいてください」と訳することもできる言葉です。彼らは他の弟子たちから離れて二人だけでエマオに向かっていましたが、主イエスから聖書の説明を聞いていたとき「心の内が燃やされて」分かち合いや交わりを求めるようにされたのでしょう。
◎食事の席で、主イエスは主人のようにふるまわれ、パンを裂いてお渡しになると弟子たちはこの方が主イエスだと分かったのです。復活され生きておられる主イエスに出会った二人は、エルサレムに残っていた他の弟子たちのところに急いで戻り、復活の主イエスと再び出会ったことを伝えた。復活の主との出会いによって、心の内が燃やされ、共に宿っていただくとき、救いのみ業があらわされるのです。



2023年4月23日  
「平和があるように」<ルカ24章36~43節>

◎エルサレムに戻った二人の弟子は、エマオへと向かう道中で出会った人物が、主イエスだと分かった次第を皆に話した。その時、主イエス御自身が彼らの真ん中に立たれ「あなたがたに平和があるように」と現われて下さった。しかし「彼らは恐れおののき、亡霊 (霊)を見ているのだと思った」。弟子たちは、主イエスが突然見えなくなったり、現われたりするので、肉体を持たない霊の存在だと思ったようです。
◎「平和」には「平安」「穏やか」という意味もあり、この「平和」は神が共におられるときに与えられるものです。主イエスの復活を信じる信仰によって、私たちの霊と体に真の平和が与えられるのです。
◎主イエスが肉体をもって復活されたことを疑う弟子たちに、主イエスは魚を食べられることによって、体の復活を示されました。復活して今も生きておられる主イエスは、私たちが目で見ることが出来ませんが、体をもって復活した方として、私たちと共にいて下さるのです。
◎私たちの信仰生活は、ありふれた日常生活の真ん中に主イエスが立って下さり「あなたがたに平和があるように」と語りかけて下さる歩みです。主イエスが私たちと共に歩み、語りかけて下さっていることに気づかないときや、わからないときもあるでしょう。私たちが生きている日常の生活の中で、礼拝、御言葉、 賛美、祈りを通して、主イエスの語りかけに耳を傾けてまいりましょう。私たちに与えられる神の平和を待ち望みつつ歩んでまいりましょう。



2023年4月30日  
「命のパン」<ヨハネ6章34~40節>

◎今日の箇所の前の6:1-15では、五つのパンと二匹の魚の奇跡、6:16-21では主イエスが湖の上を歩かれる奇跡が記されています。「わたしだ。恐れることはない」(6:20)の「わたしだ」は「わたしは・・・です」とヨハネ福音書で用いられている言葉と同じです(8:12、10:7、10:11、11:25、14:6、15:11)。
◎主イエスは、人々がご自分のもとに集まったのは、 彼らが満腹できるようにパンを与えてくれる方を求めていると指摘されました(6:26)。主イエスが求めておられるのは、目に見えるものを期待することではなく、しるしによって、主イエスがどのようなお方であるかを知り、神ご自身を知るようになることなのです。
◎主イエスは「命のパンを与える」と言われたのではなく「わたしが命のパンです」と、主イエス御自身が命のパンそのものであると言われました。主イエスが命に至る食べ物を与えてくだいますが、その命に至る食べ物とは、イエス・キリストが持っておられるものであるというのではなく、イエス・キリストそのものが命のパンであるということです。それは私たちが神とのつながり、主イエスとのつながりの中で生きるということです。
◎神が御子イエス・キリストをこの世に遣わされたのは、私たちが御子にあって永遠のいのちを持ち、そのいのちに与ったすべての人が失われることなく、復活の命にあずかり、天国に入れてくださる、主イエスの約束に信頼し、そこから慰めと励ましをいただき、与えられた信仰の生涯を全うさせていただきましょう。