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日本フリーメソジスト教団阪南キリスト教会のホームページへようこそ

阪南キリスト教会 / hannan christ church 



                   本日の説教より 

2023年9月3日  
「主を誇り、主に依り頼む」<Ⅱコリント11章7~15節>

コリントの教会では、福音そのものに目を向けることせず、人を表面的に見て判断し、ある人を尊び、ある人を軽んじたりしていました。パウロは、外見は見栄えのしない、「実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない」(10:10)と人々から言われおり、パウロの敵対者たち(偽使徒)は、パウロの弱さ、欠点をとらえて攻撃し、パウロの使徒職を否定しようとしました。

 ◎パウロはコリントの教会から、宣教の報酬を受けませんでした。パウロの批判者たちは、パウロは使徒としての資格がないから、報酬を受け取ることができないのだとか、信徒たちを愛していないから(11)、そうしたのだと非難したのです。パウロがそうしたのは、報酬が目当てではないことを示すためであり、信徒に負担をかけたくなかったからです(パウロは他の諸教会から援助を受けていました)

 ◎パウロは主を誇りとし、偽使徒たちがパウロたちと同様に誇れるようになることを断ち切るために、今後も同じ方針で宣教を続けることを決断します。偽使徒たちはサタンに仕える者であり、サタンは神から人を離れさせようとするために、ずる賢く働きかけてきます。神の力、聖霊の力に頼りつつ歩まなければなりません。

 ◎パウロは「誇る者は主を誇れ」(10:17)と語り、12:9では「すると主は『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました」と証ししています。私たちが弱さに気づくときも、すべての人に救いをもたらす主を誇り、神の恵みと力をいただくとき、主は私たちを強い者としてくださるのです。主を誇り、主に依り頼み、その偉大な力によって強くされるのです(エフェソ6:10)



2023年9月10日  
「キリストの十字架を誇る」<ガラテヤ6章14~18節>

 ◎この手紙は、ガラテヤ地方の諸教会に宛てたものです。パウロとバルナバの第一次宣教旅行のときに、ピシディア州のアンティオキア、イコニオン、リストラ、デルベという町々で教会が誕生した(使徒13-14)恐らく、これらの教会にパウロは手紙を送ったものと思われます。

 ◎これらの教会に偽教師たちが入り込み、救われるためには、キリストを信じるだけでは不十分で、律法を守ること、特に割礼を受けることが必要であると説いたのです。また彼らはどれだけ成果を上げたか、どれだけ功績を上げたかを誇りとしていました

 ◎パウロは、十字架のほかに誇る(自慢する)ものはないと言うのです。イエス・キリストの十字架は、世の罪の力から私たちを解放する力をもっており、私たちを新しく造り変えることが出来るのです。そして主イエスに従う者は、神に喜ばれる歩みへと導かれるのです。失敗してしまうこともあるでしょう。しかし、私たちの心の中に、主に喜んでいただきたい、主のみこころを行っていきたい、主の栄光を現していきたい、という思いが与えられ、再び主イエスの十字架の救いへと立ち帰り、きよめられ新しくされるのです。

 ◎私たちの歩みにおいて、この世界において、苦しみと悲しみが起こる現実の中にあっても、私たちはキリストと結ばれ、キリストと共に生きることによって、新しく創造されるのです。「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです」(コリントⅡ5:17)イエス・キリストの十字架には、永遠の滅びから救いをもたらす力があり、罪の赦しを与える力があり、私たちを新しく創造する力があるのです。



2023年9月17日  
「キリストの愛を身に着ける」<コロサイ3章12~17節>

 コロサイ出身の異邦人エパフラスが、エフェソで福音を伝えていたパウロから聴いて信仰に入り、その後エパフラスはパウロの協力者となり、コロサイに福音が伝えられました。おそらくパウロは、エフェソ出身のティキコやオネシモをコロサイに遣わし、教会の事情を知ったようです(4:7-9)

 コロサイの信徒は異邦人が多く、異教の習慣に戻る危険性やユダヤ教の律法主義、また神秘主義や哲学からの影響を受けていた。肉体を敵視し、苦行によって自らを誇ることもあったようです。これらが混合し、偽りの教えが起こっていました。それらに対しパウロは、神は御子の死によって和解を与えて下さり、聖なる者として下さのですと伝えるのです。

 ◎私たちは、神に選ばれ、聖なる、愛された者として、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身にまとい、主に罪を赦された者として、互いに隣人の罪をも赦し合う者へと変えられてゆくのですキリストの言葉、キリスト自身をわたしたしの内に宿し、キリストから与えられる知恵を尽くして、互いに教え、諭し合い、感謝し神をほめたたえることによって、私たちは造り変えられるのです。

 主イエスの十字架によって示された、赦しと愛を身に着け、キリストの平和に心を支配され、主イエスの御名によって、感謝しつつ歩み、キリストの言葉を心に豊かに宿らせることがキリストにある新しい生き方です。神の恵みの力によってキリストに倣う愛を身に着け、老若男女だれであっても、神は必要としておられ、キリストの体として私たちを豊かに用いて下さるのです。



2023年9月24日  
「復活の希望に生きる」<Ⅰコリント15章50~58節>

主イエス・キリストは、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んて゛下さいました。死ぬへ゛き罪人て゛ある私たちの身代わりとして死んて゛下さったのて゛す。そして神様が゛終わりの日に与えて下さる新しい命と体の復活の初穂、先駆けとして、主イエスは復活されました。この復活によって、肉体の死を越えた彼方に、神様の恵みによって活かされる新しいからた゛を与えられるという希望に生きることか゛て゛きるようになったのです。

 私たちの朽ちる肉体では、朽ちることのない神の国を受け継ぐことはできません。「神の国」とは、神様の恵みによるこ゛支配ということて゛す。私たちは、この肉体゛のままでは、救いの完成を得ることはて゛きないのて゛す。私たちの人生、この世界の延長上に神の国は無いのです。

 ◎しかし私たちか゛、朽ちない霊のからた゛へと変えられるのなら、神の国を受け継く゛者とされるのて゛す。それは主イエスが復活されたように、私たちも復活のいのちにあずかることによって霊のからた゛とされるのです。復活は救いの完成て゛あり、そこから永遠に神と共に歩む喜ひ゛の日々か゛続いてゆくのて゛す。この復活は、努力目標て゛はなくて奥義て゛す。隠された真理、言い換えれは゛、既に約束されている神様の意志、み心なのて゛す。私たちはこの神様のこ゛意志を、信仰によってしか知ることか゛て゛きません。

 ◎復活の希望に生きるとき、私たちの人生は変えられるのです。私たちの歩みは、どれだけ努力したとしても、不完全で、罪の影響を受け、欠けのあるものです。しかし、主の業に励む(主イエスを信じる)なら、様々な労苦があるときも、決して無駄になることはないのです。