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阪南キリスト教会 / hannan christ church 



                   本日の説教より 

2023年11月5日  
「新たに生まれる」<ヨハネ書3章13~21節>

3:1-15で主イエスはニコデモとの対話の中で、出エジプトの時代にモーセが荒れ野で蛇を上に掲げてそれを見た者が救われたように、人の子も上に上げられること、そしてその人の子を信じる者こそ、新しく生まれ変わって永遠のいのちを持つことができること、つまり神の国を見る、神の国に入ることができることを話されました。

 ◎「新たに」と訳されている語は「上から」とも訳することができます(ヨハネ3:31上から来られる方」)。私たちが「新たに生れる」ことは、下()からではなく、上から、神御自身から起こることなのです。新しく生まれるとは、単に良い人間になろうとすることではなく、神のいのちである聖霊を受け入れ、聖霊が自分の内に住んでくださることによるのです。

 ◎神は、私たちがまだ罪人であったときに、キリストが私たちのために死んでくださったことによって、ご自身の愛を明らかにされました。罪人である私たちのために命を捨ててくださる方がおられる。これが神の愛です。神はこの愛を、独り子イエス・キリストをこの世に与えることによって表してくださったのです(ローマ5:8)

 ◎私たちも今、神の裁きに直面しているということを覚えておかなければなりません。しかしそれは神が私たちを裁いて滅ぼそうとしておられるということではありません。神の愛によって私たちには、御子を信じて新たに生れ、救いをいただく新しい道が開かれているのです。

 ◎この神の愛に応答し、神のみことばを受け入れ、十字架に上げられたイエス・キリストを自分の罪の救い主として信じるなら、誰であっても救いをいただき、神の御霊によって新たに生れるのです。



2023年11月12日  
「あなたを創造し共におられるキリスト」<ヨハネ書8章48~59節>

ユダヤ人、ファリサイ派の人々は、アブラハムが自分たちの父であり、自分たちが神の民であるということに誇りを持っていました。そのアブラハムも彼以後の神の民も死んで葬られました。死ななかった人は誰一人いないのです。「わたしの言葉を守るなら、その人は決して死を味わうことがない」と語るイエスに対し、アブラハムよりも偉大な者だと言うのかと彼らは怒ったのです。

 ◎アブラハムは、主なる神の語りかけを受け、生まれ故郷、父の家を離れて、神の約束を信じて神の示す地へと旅立ちました。神が約束されたことは、何一つ目に見える現実とはなっていないけれども、アブラハムは旅立ったのです。信仰をもって生きるとは、神の約束の実現を信じて待ち望みつつ、その希望に生きることです。

 ◎アブラハムに約束されていた祝福を全ての人々にもたらすために、神の独り子主イエス・キリストが、父なる神によって世に遣わされたのです。アブラハムは主イエスによって神の救いが実現するその日をはるかに望み見つつ生きたのです(ヘブライ11:8-13)

 ◎天地が創造される前から、主イエスは独り子なる神として、父である神と共におられました。まことの神であられる主イエスは、父なる神によって遣わされて、人となってこの世を歩んで下さいました。そして十字架に架かられ私たちの全ての罪に赦しを与え、神の祝福の下へと回復して下さったのです。そして復活され私たちにも死を超えた復活と永遠の命を与えて下さったのです。このキリストがあなたを創造され、共に歩まれる救い主として、希望に生きることが出来るように導いて下さるのです。アブラハムと同じように、主イエスの日を見るのを楽しみしつつ。



2023年11月19日  
「命のパン」<ヨハネ書6章34~40節>

◎ヨハネ福音書6章は、主イエスが五つのパンと二匹の魚で五千人の人々を満腹させたという奇跡が記されています。人々は、イエスがモーセと同じようにパンを与えてくれるなら、神が遣わして下さった救い主と信じることができると期待していました。しかし主イエスはこの奇跡によって、神が私たちに永遠の命へと至らせるまことのパンを与えて下さることを示されていたのです。しかし人々は正しく受け止めることができず、肉体の空腹を満たすパンを求めたのです。

 ◎主イエスは「わたしが命のパンである」と、主イエス御自身が父なる神が与えて下さるまことの命のパンだと言われたのです。主イエスという命のパンを父なる神が天からこの世に送られ、私たちを養って下さり、永遠の命に至らせようとしておられるのです。

 ◎主イエスという命のパンを食べるとは、主イエスのもとに来て、主イエスこそ神が遣わされた独り子、救い主であると信じることです。主イエスのもとに来て、信じることによって主イエスという命のパンを食べ、渇くことのない水を飲む(ヨハネ4章、7章にも)ことができ、主イエスは私たちをその救いから追い出すことはありません。

 ◎私たちの肉体は必ず死を迎え滅びます。しかし父なる神は、主イエスを救い主と信じることによって、死を滅ぼし私たちに永遠の命を与え、救いの完成の時に復活させて下さるのです。この救いは、ただ神の恵みによって私たちに与えられています。それは私たちの努力という不確かなものによるのではなく、変わることのない神の愛によるものなのです。神は私たちを愛して、主イエスによる救いへと招いて下さっています。



2023年11月26日  
「真理について証をする王」<ヨハネ書18章34~40節>

◎主イエスの十字架刑は、ローマ帝国のユダヤ総督であるピラトによる裁判によって決定されました。ユダヤ人たちの求めを聞いたピラトは、主イエスを尋問し「お前がユダヤ人の王なのか」と問います。主イエスは「誰かが王だと言っている」という問題ではなくて、あなた自身が主イエスのことをどう思うかが問題だと答えます。

 ◎主イエスはこの世には属していないご自分の王国の王であると言われました。この世の力や権力によらない王国は理解できないピラトは、「それでは、やはり王なのか」と問います。しかし主イエスは、あなたはどう言うのか、私が王であることを信じるのか、と問われるのです。

 ◎さらに主イエスは、御自身が真理について証しをするためにこの世に来たのだと語られ、真理を受け入れ、主イエスが王であられることを信じて従うのであるなら、主イエスの声に耳を傾けるのですと、ピラトに主イエスと向き合うようにと言われているのです。しかしピラトは「真理とは何か」と主イエスと向き合うことが出来ず、主イエスとユダヤ人たちを行き来し、真理から目をそらし、自分の立場を守るために右往左往していたのです。

 弱い私たちは人生の荒波に翻弄され、右往左往してしまいます。時として罪に陥ってしまうこともあります。真理について証しする王である主イエスの声に聞き従うとき、真理である主イエスによって私たちは自由とされるのです。そして私たちの歩みを真理の光の中へと導いて下さるのです。私たちのために十字架にかかって死んで下さった主イエスを見上げることによって、希望の道が開かれて、新たな歩みを始めることができるのです。