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阪南キリスト教会 / hannan christ church 



                   本日の説教より 

2022年5月1日  
「わたしは良い羊飼い」《ヨハネ10章7~18節》

◎ヨハネ福音書には例えば『私は~~~である』との言い方でとてもシンプル、かつ簡潔な主イエスについてのメッセージがあります。『私は道であり、真理であり、命である』(14:6)は皆さんもよくご存じです。本日の聖書にはふたつの『私は~~である。』があります。 その1つは『わたしは羊の門である』 そして2つ目は『わたしは良い羊飼いである』 です。
◎先ず前者の『羊の門』です。 「門」とはそこから中に入るとともに、中に居る者たちを守る役割があります。 ヨハネ福音書の共同体は何らかの形で外敵を気にしながら生きて行かざるをえません。「わたしより前に来た者」とはおそらくヨハネ福音書の共同体を迫害していたユダヤ社会、特に律法学者たちであると通常、考えられています。 「羊は彼らの言うことを聞かなかった」とありますが、それは羊が「門」番としてのイエスにしか耳を傾けなかったからでもあり、 イエスが外敵から羊を守っていたからでもあります。
◎後者の『良い羊飼い』はそれほど解説の必要はありません。 羊と羊飼いは旧約聖書の伝統では、神さまとその民であるイスラエルの関係を表しています。 「主は羊飼い」(詩編23:1)はあまりにも有名です。 「わたしは良い牧草地で彼らを養う」(エゼキエル34:14)は本来、なすべきワザを忘れたイスラエルの牧者(祭司、預言者たち)への批判です。
◎さらに加えて「羊のために命を捨てる」とあります。 これは言うまでもなく、イエス自身の十字架の死、全人類のための贖いを象徴しています。 さらには「囲いに入っていないほかの羊」とは、今日の言葉で言えば世界大の宣教を意味していることは明白です。 教会はその役割を担うのです。



2022年5月8日  
「主が私たちを愛して下さったように」《ヨハネ13章31~35節》

◎主イエスが、十字架の復活と死によって、この世から父なる神のもとに行く時がいよいよ来た。主イエスは弟子たちと最後の夕食をとられていた。そこで主イエスは、弟子たちの足を洗われ、最後まで弟子たちを愛し抜かれたのでした。その後、イスカリオテのユダは席を立ち、外の闇の中へと出て行った。
◎ユダの裏切りによって、主イエスの十字架への歩みが具体的に動き始めたが、それは主イエスが神の独り子としての栄光をお受けになる時であり、父なる神も栄光をお受けになるのです。主イエスのおられる所に弟子たちも行こうとしますが、主イエスについて行くことができないのです。
◎私たちは、自分の強さによって主イエスについて行くことは出来ません。しかしそれでも主イエスは、私たちを見捨てることなく共にいて下さるのです。私たちは、「いましばらく」の人生を、自分の罪や弱さによって絶望してしまうことなく、希望をもって生きていくことができるのです。
◎「いましばらく」の時を主の弟子として歩む私たちに「新しい掟」を与えて下さいました。それは「互いに愛し合う」という生き方です。それも「わたしがあなたがたを愛したように」と、主イエスが私たちを愛して下さったように、互いに愛し合うのです。それは、私たちを最後まで愛し抜かれ、私たちの罪を背負い十字架で死なれ、ご自分の命を与えるほどの愛です。主イエスは、罪や弱さの中にある私たちと共にいて下さり、私たちをきよめてくださり、新しい生き方へと導いて下さるのです。



2022年5月15日  
「豊かな実を結ぶために」《ヨハネ15章1~11節》

◎前回(10章)に引き続き「わたしは~~である」定式の例えですが、前回と同様に「私はまことのぶどうの木」が2度繰り返される(1,5節)のは強調を意味します。 さらに注目すべきは「つながる」という動詞が9度も繰り返されます。私たちは単独では生きて行くことはできません。 必ず何かにつながって初めて生きる事ができる存在なのです。
◎ぶどうの木(幹)と枝の関係は信仰者と教会の関係であることは一目瞭然です。 もともと異なる存在である私たちが枝として、主イエスなるぶどうの木に接ぎ木されるという例えは、農業・園芸でも通常「接ぎ木」という方法が用いられる事でも良く理解できるものです。 その事で、より豊かに、かつ速やかに成長することが知られています。すなわち、私たちの信仰の成長もその幹へのつながり方次第であると言えます。
◎「私はまことのぶどうの木」の「まことの」に注目するなら、これは当時のヨハネの教会が直面する社会状況を垣間見ることができます。 ヨハネの教会は自分たちを憎んでいる2つの敵と戦わねばなりませんでした。 その1つはユダヤ教団です。 彼らは律法主義的な生き方に従わずにイエスという人物を崇めているのはとんでもないと攻撃します。 もう一つはローマ帝国の迫害でした。
◎そのような中で信仰を守り通すことは至難のわざと言っても良いです。 その答えは主イエスにしっかりと「つながって」生きたからといえます。 後半部9節以下に「わたしの愛にとどまりなさい」とここでは、「とどまる」という動詞が3度も繰り返されます。 実は原語では「とどまる」も「つながる」 も同じ動詞で、その時に「実を結ぶ」者となれるのです。



2022年5月22日  
「苦しみは喜びに変わる」《ヨハネ16章12~24節》

◎主イエスが弟子たちに言っておきたいことは、まだまだたくさんあると言われましたが、今弟子たちには理解出来ず、「真理の霊」すなわち、聖霊が来て下さることによって悟ることができるようになるのです。
◎父なる神と、独り子なる神主イエスと、弁護者、真理の霊である聖霊なる神は、一体となって、救いを実現し、それを悟ることができるようにして下さり、その救いに生きる者として下さるのです。私たちは主イエスをこの目で見ることはできませんが、聖霊が、神による救いの真理を明らかにし、悟らせて下さるので、私たちは目に見える証拠なしに、主イエスによる救いを信じて生きる ことができるのです。
◎主イエスは、弟子たちの「悲しみは喜びに変わる」と告げられ、そのことを産みの苦しみと誕生の喜びにたとえられました。20,22節の「悲しむ」と21節の「苦しむ」とは同じ言葉で、肉体的、精神的な痛み、苦しみを意味しています。主イエスはこの世を去り、その苦しみの中にいる私たちと主イエスは再び会って下さるのです。
◎産みの苦しみは、意味のある、希望のある苦しみです。苦しみの中で、主イエス・キリストのみ名によって父なる神に祈り願うことができるところにこそ、聖霊によって与えられる喜びが満たされるのです。その喜びを私たちから奪い去ることができる者はいないのです。目に見える苦しみの現実は変わらなくても、聖霊によって、主イエスによる救いを信じ、恵みを与えて下さる神の愛に 信頼して、主イエスの名によって父なる神に祈り続けてまいりましょう。



2022年5月29日  
「喜びが満ちあふれるために」《ヨハネ17章1~13節》

◎「時が来た」とは、主イエスがこの世から父のもとへ移る時、主イエスが捕えられて十字架につけられて死んだ後、復活して天に昇る、その時が来たということです。主イエスはご自分に栄光が与えられることによって私たちの救いが実現することを祈り願われた。主イエスは、十字架の死を通して栄光を受けられ、私たちの救いが実を結ぶのです。
◎主イエスがこの地上を去り、父なる神のもとに行かれた後、弟子たちは、苦しみ、試練の中を歩むのですが、主は弟子たちを教え、足を洗い、聖霊を送る約束を語り、励まされました。そして、父なる神が主イエスに与えられ、主に従って歩む弟子たちのために、主は祈って下さったのです。 ◎「御言葉を守りました」とは、主イエスがお語りになった神の言葉を、弟子たちが受け入れ、主イエスを神の子、救い主と信じたということです。私たちは、本来神のものでしたが、罪により神との関係が破壊されましたが、救い主イエスによって回復し、恵みによって生きる者として下さいました。
◎主イエスによる守りが目に見えるかたちでは与えられなくなる弟子たちの歩みは、主イエスご自身の喜びが彼らの内にも満ちあふれることによって支えられていくのです。主イエスご自身の喜びとは、父なる神に愛され、その愛に応えてご自分も父なる神を愛し、そのみ心に従って生きることなのです。主イエスのものとされている私たちは、この世における苦しみの中で、神に守られつつ、この世にしっかり踏み留まって生きるのです。