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日本フリーメソジスト教団阪南キリスト教会のホームページへようこそ

阪南キリスト教会 / hannan christ church 



                   本日の説教より 

2022年6月5日  
「神の業が聴かれるために」《使途言行録2章1~13節》

◎ここ数年のコロナ禍は人々が「共に居る」事自体を困難にし、それどころか人々のつながりを断ち、交わりを壊して教会の活動を弱めてきました。 これは人々の相互理解をますます困難にして行きます。果たしてこんな中でも聖霊は働いているのだろうか?そう思わざるを得ません。
◎これは復活後の弟子たちの群れの状態を暗示しています。 彼らは復活の主を見ても疑心暗鬼がぬぐえない存在です。 仲間割れを繰り返すようなそのような者たちに宣教の知恵も力もある筈がありません。 では、なぜ教会が拡がって行くことができたのか? それが聖霊の働きであったのです。 ペンテコステは他ならぬ“宣教する”教会が誕生した記念日なのです。
◎それは「突然」のしかも超自然的な出来事として描かれ ているように見えますが、そこには見逃してはならない前提があります。「一同が一つになって集まって」(2:1)いたことです。 一致して一箇所に集まっていた!一致するためには自らを無にしなくてはなりません。 そこに聖霊が働くからです。 創世記11章で傲慢になった人間たちを神さまが散らされたことで互いのコミュニケーションが途絶えました。
◎しかしこのペンテコステは様々な人たちが理解し合える言葉を持つことができた。 そういう偉大な出来事です。今なお民族間で対立している戦争している世界、それは一方的に言葉を押しつける事が解決ではありません。分裂から一致をもたらす新しいキリスト教会の誕生によって、言葉の相違を超えた真の理解と一致へと導く力は聖霊によるしかないのです。 私たちも聖霊を待ち望みましょう。



2022年6月12日  
「神の子とする霊を受けて」《ローマ書8章12~17節》

◎ローマ8章でパウロは、キリストの救いにあずかった信仰者は、神の霊を受け、神の霊が内に宿って下さり、神の霊に従って歩む者、神の霊によって導かれる者となっている、ということを強調しています。神の霊によって私たちは、キリストに属する者、キリストによる救いにあずかり、キリストと結ばれて生きる者とされるので 牧会祈祷 重富牧師 お願いいたします。 す。神の霊の働きによって私たちは、キリストの復活にあずかり、新しい命を生きる者とされるのです。
◎神の霊を受けることによって、私たちも神を「アッバ、父よ」と呼びかけられる主イエスと同じ神の子とされ、私たちは、神を「アッバ、父よ」と呼びつつ生きる者とされるのです。私たちは、神に造られた被造物であり、神に従わず、背を向けていた罪人です。しかし神は独り子イエス・キリストを遣わして下さり、主イエスが私たちの罪を背負って十字架にかかって死んで下さることに よって私たちを赦して下さり、復活によって新しく生きる道を拓いて下さいました。
◎神を信じる者は、奴隷のように恐れながら生きることはありません。神の戒めに縛られ、何か失敗して罰せられてしまうのではないかと恐れながら生きることではなく、神に愛されている者として生きることなのです。
◎神が父として子である私たちを愛し、養い、守り、導いて下さるという父としての真実な愛の下で、私たちも父である神を信頼し、安心して生きるのです。神の父としての愛の中で、安心して、喜んで、積極的に、失敗を恐れずにいろいろなことに挑戦することが出来る者となるのです。



2022年6月19日  
「人間に従うより神に従うのみ!」《使途言行録4章1~22節》

◎初代教会に働いていた「聖霊」の力は現在はどうなっているのだろうかと疑問に思う向きがあるかも知れません。伝道の停滞を前にしてはなおさらでしょう。 私たちはその働きを期待しなくなっているのでしょうか。それとも、その働きを私たちが阻害しているのでしょうか。
◎主イエスの伝道によって従った人たちはわずか120名であったと記されています(1:15)。 2章では使徒たちに3千人が洗礼を受けました(2:41)。 本日の4章ではさらに5千人が信じたとあります(4:3)。 ペトロとヨハネの「生まれながらの足の不自由な男」への奇跡的癒やしのワザ(3:1~10)と説教(3:11~26)がもたらしたと言えますが、それとて聖霊を抜きにしては考えられません。
◎しかし、これらの働きは大きな反発を生みました。 特に宗教的・政治的権威のある支配層にとってはなおさらです。何よりもペトロとヨハネが「無学な普通の人」であることが我慢なりません。 この「無学な普通の人」たちをのさばらせておくワケには行きません。 何としても押しとどめないと民衆の間に拡がって、自分たちの地位すらも危うくなってしまうと考えるのも無理はありません。 そこ で彼らは自らの権威を振りかざして人間的な脅しをかけるのです。 果たしてそれは効果をもたらしたでしょうか。
◎ペトロとヨハネにとって「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか」(19節)と当然のように問いかけ直して全く怯む気配を見せません。 その大胆さはどこから来るのか。 まさに信仰からです。 少年ダビデが巨人ゴリアテに向き合った時、ただ主の守りを信じていたように、聖霊の大いなる力を信じる信仰なのです。



2022年6月26日  
「イエス・キリストの名によって」《使途言行録16章1~24節》

◎本日の聖書箇所は、三回行われたパウロの宣教旅行の第二回目(15:36~18:22)、ギリシア地方マケドニア州フィリピでの出来事です。神をあがめていたリディアという女性の心を主が開かれたので、パウロの話を聞いた彼女は、主イエス・キリストを信じ、洗礼を受けた。そして、自分の家にパウロたちが泊まるように招き、フィリピ伝道はここを拠点に展開された。
◎パウロとシラスは、祈りの場所に行く途中、占いの霊(ピトンの霊)にとりつかれていた女奴隷に出会った。彼女は、パウロとシラスにつきまとい、パウロたちが「いと高き神の僕で、皆さんに救いの道を宣べ伝えているのです」と叫んでいた。
◎彼女が叫んでいた内容は間違っていないように聞こえますが、「ピトン」は、ギリシア神話で神託所を守る大蛇で、「いと高き神」はゼウスを指します。ですから、パウロは「主のまっすぐな道をゆがめる」霊を、彼女から「イエス・キリストの名によって」追い出した。
◎ただ神を信じる、いと高き神を信じることで救われるのではなく、イエス・キリストの名によらなければ、救われないのです。「名」とは、その人の存在を表すものです。「わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」(使徒4:12b)。 私たちは、主イエス・キリストの愛、救いの御業に応答して歩むのです。主イエス・キリストは、私たちの罪をすべて負い、十字架でご自分のいのちを投げ出し、私たちの罪の贖いとなって下さいました。この方を信じる信仰によって、罪赦され、救いをいただくのです