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阪南キリスト教会 / hannan christ church 



                   本日の説教より 

2022年7月3日  
「精霊のワザとしての宣教」《使途言行録13章1~12節》

◎『使徒言行録13章』はペテロを中心としたエルサレムの原始教会の伝道活動と教会の成長について書かれた前章から大きな転換点を迎えます。 使徒パウロの三次にわたる伝道旅行の第一回目がここからスタートするからです。 パウロはかつて教会の迫害者でしたが、ダマスコへの途上で主イエスとの劇的な出逢いを経験して(9章)から異邦人への福音宣教者として立てられます。
◎そのようなパウロですが迫害者としてのかつての肩書きはそう簡単に受容されたワケではありません。 人間がそんな簡単に豹変するなんて誰も恐れて信じないのも当然です。 そのようなパウロと弟子たちとの間を取り持ったのがバルナバでした。 その後、エルサレムで弟子たちに受け容れられ、熱心な伝道を開始したパウロですが反発したユダヤ人たちに命を狙われ、故郷のタルソスへ一時避 難します(9:23~30)。 後日、そんなパウロを探して連れ帰ったのもバルナバでした(11:25~26)。 パウロにとってバルナバという人物の重要性がいかに大きかった事か!
◎エルサレムの教会が大迫害を受けて多くの弟子たちが散らされて行きます(8:1)。 しかし、散らされて行った場所で弟子たちは伝道を始めます。 その結果、異邦人の教会が生まれます。 その中心地がアンティオキアとなります。
◎アンティオキアはまた異邦人伝道のための宣教の教会となります。 そしてその最初の宣教師にバルナバとパウロが選ばれます。「彼らが主を礼拝し、断食していると、聖霊が告げた」(2節)「そこで、彼らは断食して祈り、二人の上に手を置いて出発させた」(3節)。 「彼ら」とは教会です。宣教する教会は礼拝と断食、そして祈りに基づいた教会でもあるのです。



2022年7月10日  
「神の約束された救い主」《使途言行録13章13~25節》

◎「パウロとその一行は」(13 節)とアンティオキア教会から遣わされたバルナバとパウロは、ここからパウロの活動に焦点があたるようになります。バルナバのいとこでマルコと呼ばれるヨハネは、一行と別れてエルサレムに帰ってしまいましたが、パウロたちはピシディア州のアンティオキアに着いた。
◎安息日にユダヤ人たちの会堂に入ったパウロとバルナバは、律法と預言書が朗読された後、会堂長たちから会衆のために励ましの言葉を話してくださいと依頼され、パウロは立ち上がり語り始めた。
◎パウロはイスラエルの歴史を通して、神がイスラエルに、どのように恵み深く臨んで下さり、どのように救いの御業を成し遂げてくださったかを語った。神に背き続けるイスラエルに対して、神の憐れみのゆえに、神はダビデとの約束を実現してくださり、ダビデの子孫からイエス・キリストを遣わしてくださったのです。神は独り子をこの世にお与えになり、救い主イエスによって、約束を実現して下さったのです。
◎24-25節には、主イエスに先立って、人々が神へと立ち帰り、主から遣わされるメシアを迎え入れることができるように、悔い改めの洗礼を宣べ伝えたヨハネのことが記されています(19章には、同じ小アジアのエフェソに、ヨハネの洗礼を受けた者たちが記されています)。パウロは、そのヨハネが予告していたメシア・救い主こそ、イエスであり、この方こそ、神の約束された救い主であると語るのです。救い主イエス・キリストを信じるとき、私たちも神の祝福にあずかる主の民となるのです。



2022年7月17日  
「精霊の助けにより、信仰によって」《ガラテヤ5章2~11節》

◎ガラテヤ5:1で語られたキリストによって私たちが自由の身とされたということは、私たちが自分の力で獲得した自由ではなく、神がキリストにおいて私たちに与えて下さった自由です。それは、律法の行いによって義とされようとする生き方からの自由であり、律法の奴隷からの自由なのです。
◎ガラテヤの諸教会において、キリストの十字架による救いによって与えられた自由から引き離そうとする者たちがおり、彼らは信仰のみによる救いではなく信仰と行いによる救いを主張していました(「あながたを惑わす者」10節、「あなたがたをかき乱す者」12節)。具体的には割礼を受けることを迫っていたのです。
◎十字架にかけられて殺された者は神に呪われていると考えられており(申命記21:23)、キリストの十字架の死に救いがあることは「つまずき」となるので、信仰に加えて行いを求めたのです。しかし、つまずきに満ちたキリストの十字架にこそ、神の愛があらわれているのです。罪によって滅ぶしかなかった私たちを救うために、神は愛する独り子を遣わし十字架に架けて下さったのです。
◎私たちは「義とされた者の希望」すなわち主イエスによる救い、終わりの日の完全な救いを、「御霊の助けにより、信仰によって」(口語訳聖書)とあるように、聖霊の助けによって確信し、待ち望む者とされるのです。心が揺れ、信仰もなくなりそうになる私たちを、聖霊なる神様が助けて下さるのです。キリストの十字架と愛によって、あらゆる恐れや不安から自由となり、希望を持って歩んでまいりましょう。



2022年7月24日  
「神の家における生活」《Ⅰテモテ3章14~16節》

◎前回(使徒言行録13章)、パウロの第一回伝道旅行に際して、バルナバという人物の果たした役割について言及しました。 しかしながらのちに、この二人は意見の激しい衝突をみることになり(使徒 15:38-39)、別行動をとるようになってしまいます。 (それがなければ「バルナバへの手紙」がひょっとしたら残っていたかも・・・)
◎そのバルナバに替わってパウロはテモテという人物を選びます(使徒16:1-3)。 テモテはパウロの生涯にわたってのかけがえのない「協力者」となります。 Ⅰテモテ書の冒頭では「信仰によるまことの子」(1:2)という表現が見られるほどです。これは最も信頼すべき助け手であり続けたテモテへの賛辞でもあるでしょう。そんなテモテに対して実践的な教会生活へのアドバイスがこの書簡の目的です。聖書に残された個人宛の書簡はこの他にテトスとフィレモンの二人しかありません。
◎本日の短い箇所は3章あるいはテモテ書全体の中で位置づけて理解されなければなりませんが、テモテ書の頂点と考える学者もいます。 「神の家」とされる教会での生き方は、一見「・・・・でなければならない」という律法的な生き方にみえます。 しかし、それは社会人として義務をまず果たしながら証し人として生きることなのです。
◎常識的な社会人として、と言えばそういえるでしょう。ジョン・ウェスレーは特に貧しい人への奉仕という社会的な正義を追い求めました。 それは結果的に人々を福音へと導いてゆく結果をもたらしました。 最後はキリスト、すなわち主に栄光を帰して終わります。 私たちの生涯も頌栄に始まり頌栄に終わるものでありたいです。



2022年7月31日  
「今こそ、救いの日」《Ⅱコリント6章1~10節》

◎「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」という言葉は、『なぜなら、「恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。 救いの日に、わたしはあなたを助けた」と神は言っておられるからです。』というイザヤ49章8節の言葉を受けてパウロが語っています。
◎イザヤ49章8節は、苦しんでいる、悩みの中にあるイスラエルの民に対して、やがて必ず神様が救いを与えて下さると、イザヤが預言を語っている箇所です。イザヤは、今は苦しいけれども、やがて必ず神様が救いを与えて下さるのだから、希望・勇気を持って生きて行きなさいと勧めているのです。
◎パウロは、「やがて」神の救いが来るということではなく、今ここに神の恵みがあり、今救いがあると「今」を強調しました。このように語るパウロは、恵まれた境遇にいたわけではありません。4,5節でパウロはありとあらゆる苦しみを味わったと告白しています。そのような苦しみや、また周囲からどのように見られているのかに関わらず、パウロは恵みを無駄にすることなく、神が必要を与えて下さる中に生きているのです。
◎私たちはイエス・キリストの十字架と復活によって、罪の奴隷の状態から解き放たれて、神の救いが与えられています。私たちは「今」救いの中、神の恵みの中に置かれています。悩み苦しみの中においても、神は「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」と今この時も語りかけておられます。6,7節のような実を結べていないかもしれません。この中で真ん中に重要な「聖霊」が記されていま す。神に仕える者として、私たちの内に与えられた聖霊なる神の力によって、私たちは造り変えられるのです。