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日本フリーメソジスト教団阪南キリスト教会のホームページへようこそ

阪南キリスト教会 / hannan christ church 



                   本日の説教より 

2022年8月7日  
「すべての部分が喜ぶために」《Ⅰコリント12章12~16節》

◎昨6日(土)は広島に原爆が落とされて77年目。 原爆投下時に合わせて「平和記念式典」が続けられていることは意義深い。 今回、約5千人もの方々の名前が被爆者名簿に追加され、犠牲者は33万4千人に上るとの数字に改めて原爆の悲惨さに思いを馳せざるを得ません。私たちは8月第1(日)を「平和聖日」と守っている聖書的な意義にも目を向けつつ、平和を祈る者でありたいと願う。
◎現下の戦争の絶えない世界の中で「平和」は何よりも、人と人・国と国・民族と民族の間の争いのない状態であることと理解されている。 しかし、聖書的「平和」は神と人との間の関係が出発点であることに最大の特徴がある。 パウロはその関係について「和解」という神学的用語を用いて表現し、「神は、キリストを通してわたしたちをご自分の和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました」と述べています(2コリント5:18)。 すなわちキリストの十字架の血潮と復活がまず私たち人間と神との間に平和(=和解)をもたらすことができ、さらに私たちはこの世に対して和解(=平和)をもたらす任務が与えられていると語るのです。 神との間の平和が平和を生み出すのです。
◎パウロはそのことを私たちの身体に例えて語ります。 身体とその中の臓器は大小に関わりなく、またその働きの如何にも関わらず、補い合って成り立っており優劣の区別はなく、どれひとつ欠くことできないものである。 「一つの部分が苦しめば、すべての部分が苦しむ」(26節)のである。
◎そしてこの身体の比喩は更に「教会」そのものの働きへと解釈が拡がって行く(27節以下)。 使徒の働き、預言者の、また教師の・・・と。それらが「平和裡」につながり合う時に「和解」の使者として世に働くことができるのである。



2022年8月14日  
「主イエスを見つめながら走り抜く」《ヘブライ12章1~13節》

◎旧約聖書の信仰者たちが、見えない事実(たとえば神の約束)を真実であると確信して歩んだことが11章で語られた。彼らは神の約束を信じていたが、約束されたものを受け取らなかった。しかしキリスト者は、神の約束がイエス・キリストにおいて成就したことを知り、約束された恵みを受け取っているのです。
◎私たち信仰の歩みは、過去の信仰者たちの群れに励まされながら、目標を目指して走っているようなものです。主イエスは私たちのために救いの道を開き、実現された方です。信仰はこの方に始まり、この方において完成するのです。主イエスが信仰生活において私たちの前を行き、道しるべをつけてくださっています。この主イエスを見つめながら、絡みつく罪や重荷を主イエスに取り去 っていただき、私たちは信仰のゴールを目指してを走り抜くことができるのです。
◎5-6節は箴言3:11-12からの引用です。神が家族の一員として、御自身が愛されるキリスト者を鍛え、育てようとしておられるので、苦難があっても力を落とさなくても大丈夫だと私たちを励ましているのです。
◎私たちを生かす霊を送られる父なる神様は、「わたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです」。それは私たちが神の子であることを知ることにもなるのです。
◎私たちが「まっすぐな(正しい)道(車輪の跡)」を歩いて行くことは、主に従う道に迷っている者がいやされることにもなります。信仰の創始者(導き手)であり、またその完成者でもある主イエス・キリストを見つめながら走り抜いてまいりましょう。



2022年8月21日  
「キリストと教会の関係は」《エフェソ5章21~6章4節》

◎夫婦関係・親子関係のあり方をキリストと教会に例えてパウロが論じている箇所で「家庭訓」と呼ばれています。 「妻たちよ・・・・仕えなさい」(22節)との勧告は当時の男尊女卑的な世界観(=多くの場合、現代でもはびこっている)が前提にされていると考え勝ちです。 しかし、パウロはむしろ一方的な主従関係ではなく、「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい」(21節)と、上下の命令関係ではなく、相互に補完し合う関係としての勧告なのです。
◎「仕える」とは最近の訳では「従う・従順である」とされ、キリストに「従順である」という動機と結びついていることを確認しましょう。 それはキリストが私たちのために命を捧げられた事に応える、換言すれば「教会がキリストに仕える(=従う)」姿であると言えば判りやすいでしょうか。
◎それに対して夫に求められるのは「妻を愛しなさい」(25節)です。 この命令形は3度繰り返されます(28節、33節)。当然、人間的な自己満足的な愛情ではありません。 ここも 「キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように」(25節)とあるように、どこまでもキリストと教会の 関係がモデルとして前提されているのです。パウロが夫婦のあり方を「キリストと教会」の関係に例えることで、性別によって差別や支配をするのではなく、キリストの愛を基礎として互いが全く平等であり、不可欠な存在として生きて行くことを求めるのです(1コリ7:4~5、11:11も参照)。
◎同様のことは親子関係においても言えます(6:1~4)。 「主に結ばれている者として」という前提があります。 ここで「両親に従いなさい」(1 節)は妻と夫の関係とは異なっていて律法に従うが原義ですが、主イエスも「両親にお仕えになった」(ルカ 2:51)ように、主に倣う者となるのです。



2022年8月28日  
「心の底から新たにされて」《エフェソ4章17~32節》

◎エフェソの信徒たちは、そのほとんどが異邦人でした。神を知らずにに生きていた人々が、恵みにより、信仰によって救われました。彼らが学んだこと、教えられたことを思い起こさせ、「古い人を脱ぎ捨て」、「心の底から新たにされて」、「新しい人を身につけ」て生活するように勧めます。これらは洗礼の出来事でもあります。
◎滅びに向かっていた「古い人」を脱ぎ捨て、心の底(神と人格的に交わる霊)から新たにされて、キリストに結ばれた「新しい人」として、愛に根ざした生活を送り、救いの御業が多くの人々にあらわされてゆくのです。
◎「真実を語りなさい」私たちは、キリストの体である教会に属しており、「互いに体の一部なのです」。「真実」は21節の「真理」と同じ言葉です。主イエスのうちに主イエスの愛に裏打ちされた真実の言葉を語るのです。「怒ることがあっても、罪を犯してはなりません」正当な怒りであったとしても、裁きは神がなさることであることを心に留め、神の怒りに委ねることによって、私たちから罪を引き離すことになるでしょう。「盗んではいけません」盗みについては、個人的な問題 に収まらないところもあります。社会構造による貧困の問題、世界的な問題なども考えると非常に根深い問題です。正当な労働と分け与えることが語られています。「その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい」主の愛による言葉が、私たちを生かすのです。
◎主イエスによって赦されたのだから、私たちは互いに赦し合うのです。主イエス・キリストの赦しがあらわされた十字架の愛が私たちの人生の土台となるのです。この愛の交わりのうちに私たちの霊は新しくされるのです。