阪南キリスト教会 / hannan christ church
2022年11月6日 「神の家族の始まり」《創世記18章1~15節》 ◎新約・旧約聖書の中に「笑う」という表現が驚くほど少ないことにお気づきでしょうか。 神は熱情の神で、怒り・悲しまれますが決して笑いません。「笑う門には~」と、人間にとって健康の源ともなる大切な感情表現である「笑い」がないのは何故でしょうか? 替わりに「嘲(あざ)笑う」とか「物笑い」という表現がたくさん出てくるのです。 ◎神さまは年老いたアブラハム・サラ夫妻に「男の子を与えよう」(17:16)との約束を与えます。 しかし、彼らの反応はどうだったでしょうか?「アブラハムはひれ伏した。しかし笑って、」(17:17)と、頭から信じようとしない不信仰がありありと見て取れます。 サラも同じです。 「サラはひそかに笑った。自分は歳をとり、・・・」(18:12)と神の全能性を真に受け止めていません。 そして、否定したにもかかわらず「いや、あなたは確かに笑った」(18:15)と叱責されるのです。 ◎神の約束を信じることがどれほど困難と思える時も、エリサベツが、そしてマリアがそうであったように「主に不可能なことがあろうか」(18:14)と信じ待ち望み続けることです。 それは決して何もせず受動的でいることでもありません。 アブラハムは自らの生活の場であるマムレの樫の木の下で主の現れを待ちます。 そこはかつて祭壇を築いた場所でもあります(13:4,18)。 信仰の原点です。 ◎3人の使いが訪れます。 アブラハムは「走り出て迎え、地にひれ伏して、・・・どうか、僕のものを通り過ぎないでください」(2,3節)と請い願います。 そして精一杯の接待をします。 恵みの訪れは通り過ぎてしまいます。 ザアカイはいちじく桑の木に登って主イエスを待ちました。 「主は、約束されたとおりサラを顧み」(21:1)られた時、「神はわたしに笑いをお与えになった」(21:6)。サラは真の笑いで満たされたのです。 2022年11月13日 「わたしたちと共にいます主とは?」《出エジプト3章1~15節》 ◎イスラエル人はエジプトで奴隷とされ、重労働を課されて苦しんでいた。モーセは同胞を救おうという志を立てて立ち上がったものの、挫折して逃げ出し、ミディアンの地で祭司エトロの娘ツィポラと結婚して、羊の群れを飼う者となっていた。 ◎モーセの前に、ある日主なる神が現れ、イスラエルの民を奴隷から解放する指導者として彼をエジプトへと遣わそうと、燃え尽きない柴の間の炎から語られた。モーセは、何気ない日常の中で主なる神に出会ったのです。 ◎神の名を問うモーセに「わたしはあるという者だ」と神は答えられました。「わたしはある」という言葉は、神が先にモーセに語った、「わたしは必ずあなたと共にいる」という言葉の中で使われていました(直訳すると「必ずわたしはある あなたと共に」)。「ある」とは、ただ存在するということではなく、その神は、すべての創造の源であり、初めから存在し、真のいのちを持っておられ、他の存在に依ることなく、永遠に存在するお方であることを示しています。 ◎アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主は、イスラエルの民を救い出すために降って来られました。神の独り子イエス・キリストが、人間となってこの世に降って来て下さり、十字架と復活によって、罪の赦しと永遠の命を与えて下さったのです。神を礼拝しつつ歩んでいる私たちの人生に、主は燃え尽きることのない愛をもって私たちのところに降って来て下さり、「わたしは必ずあなたと共にいる」と私たちに語りかけ、招いて下さるのです。私たちのことを「見て、聞いて、知って」おられる主なる神が、共に歩んでくださるのです。 2022年11月20日 「神の国と地上の王」《サムエル記下5章1~5節》 ◎「収穫感謝祭」の起源は良く知られていますが、単なる暦上のお祝いに終わるのではなく、収穫を「共に分かち合う」という要素を忘れては何の意味もありません。 そして私たちに恵みとしての命の源を分け与えてくださる神さまに特別に心を注ぎ感謝するひと時としたいものです。 ◎「王」、「王国(王制)」というのも、イスラエルにおいては神さまから与えられたもの(Gift)と考えられています。ダビデ王の前のサウル王はとても主の御心に適った王とは言えず、サムエルによって退けられてしまいます。 その次に選ばれたダビデはエッサイの末っ子の羊飼いに過ぎませんでした。 しかし主はサムエルを通してあえて小さきダビデに油を注がせたのです(サムエル上16章)。 ◎サウル王はそのようなダビデに激しく嫉妬し、彼をなき者にしようとします。 ダビデもサウル王との不本意な戦いを強いられます。 かたやペリシテ軍との戦いにも勢力を割かねばなりませんが、とうとう力尽きてギルボア山上で息子ヨナタンらと共に討たれて王朝は途絶えます。 ◎主は新たにダビデと契約を結ばれイスラエルに王朝を再興されます。 サウル王の残党との熾烈な権力争いは続きましたが、ついに全イスラエルの王としてダビデは立てられます。 イスラエルの王制は契約に拠るもの(3節)であることが特徴です。 すなわち御心に適わなければ退けられてしまう仮の姿に過ぎないということです。 ◎預言者ナタンはダビデ王朝は永遠に続くと預言しますが(7章)、結局、その王朝も北と南に分裂し、北王国はアッシリアに、南王国はバビロニアに滅ぼされます。 人間の王国の不完全さは真の王である主イエスを待たねばなりませんでした。 旧約聖書はこのイエスを指し示すのです。 2022年11月27日 「公平と正義の神」《エレミヤ33章14~16節》 ◎エレミヤは「涙の預言者」と言われています。それは彼が味わった苦悩と悲しみの深さを表しているだけではなく、エルサレムの滅亡と背信の民の滅びを悲しむ苦しみでもありました。エレミヤは彼らの罪に対する神の審きとして、イスラエルの滅亡と捕囚を語りました。 ◎30章でエレミヤは、イスラエルとユダの回復する日が来ることを預言した。31章では、神がイスラエルの家とユダの家との間に新しい契約を結ばれるという希望と慰めとを語ります。このエレミヤの「新しい契約」の預言は、イエス・キリストによって実現するのです。 ◎33章の主の言葉は、エレミヤが獄舎に拘留されていたときに、臨んだものです。エレミヤは、エルサレムが廃墟となることを預言しましたが、33:10-11でエルサレムが復興することを預言したのです。 ◎南ユダ王国のゼデキヤ王は、エジプトを頼ったため殺され、ダビデ王家は断絶しました。しかし、ダビデの子孫から再び王が立てられる日が来ると、主が約束を果たされることをエレミヤは聞くのです。主イエスは「メシア、ダビデの子」として生まれた、神の子です。 ◎本日の聖書箇所は23章5-6節にもほぼ同じ内容が記されています。来たるべきメシアはダビデの子孫であり、正義と公正を行ない、神が義の神であることを証しする神の義とは、神の目から見て正しいことを意味します。イエスを通して神の義があらわされました。彼は威厳に満ちた立派な王としてだけでなく、弱さを担う牧者としても生まれて来られました。私たちの思いを超えたところにある「公平と正義」を救い主イエスを通して見ることができるのです。 |