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日本フリーメソジスト教団阪南キリスト教会のホームページへようこそ

阪南キリスト教会 / hannan christ church 

                   本日の説教より 

2017年11月5日
「神のかたちが失われるということ」<< 創世記 4章 1~ 10節 >>

◎神さまは人間が住み暮らすにふさわしく整った環境(世界)を備えた上で人間をこの世界に生み出されました。
人間が願い、望んだからでも何でもありません。それは神さまの一方的な恵みです。人間はその世界を管理する責任を与えられているのです(1:28)。それにもかかわらず人間は不平不満を言うばかりでなく、その世界を傷つけ壊してしまいつつあります。それが罪の姿です。〔先週の要旨〕
◎本日の4章はカインが弟アベルを妬みによって殺してしまうというおぞましい、人類最初の殺人の話しです。ここでカインは弟のことなど「知りません。わたしは弟の番人でしょうか。」(9節)と責任逃れをしようとするのです。
◎罪がこの世界に入り込んで来たのはアダムとイブが神の命令に背いた事が起源で(3章)。本来はこちらを罪(原罪)の出発点とすべきです。彼らは「神の顔を避ける」こと(3:8) で、取り繕おうとするのですが、そんなことが神さまに通じる筈がありません。それどころか、アダムはイブに、イブは蛇に責任を転嫁しようとする愚かさを表してしまいます。その結果、人間は労苦(労働)をして生活の糧を得ることになります(3:19)。
◎「罪(原罪)」とは犯罪とは明確に区別されて、私たち人間性の本質に宿っているものです。それは「神のかたち」として創造された人間(1:27)が、責任を果たそうとしないで責任逃れをして生きていることです。「神のかたち」の回復が救済でありそのために主イエスが来て下さいました。



2017年11月12日
「わたしに何をくださると言うのか?]」<< 創世記15章 1~8,17~20節 >>

◎本日の聖書箇所(創世記15章)に至るまでの大きな出来事に「ノアの洪水」(6~9章)、そしてアブラハムの召命(12章)があります。堕罪の中にある人類から新しい民をこの世界に生み出そうとする神さまの計画が示されています。
◎神さまはアブラハムを選ばれることによって、新しい民としての計画を実行しようとされます。それはアブラハムと契約を結ぶことによって「神の民」として歴史を導こうとするものです。神の手の中に置こうとするのです。
◎「契約」とはお互いが決められた事を守るものです。そのことでお互いがメリットを享受するのです。どちらかが約束を破った時点で契約は破棄されたも同然となります。アブラハムとの契約は既に12章に記されています。それはアブラハムと子孫に祝福を与え、土地を贈与するというものでした(12:2~3,7)。「アブラハム契約」と言います。
◎この契約は実は一方的な約束でした。 人間に何の義務を課すものでもないのです。にもかかわらずアブラハムはそれが本当に果たされる約束なのかどうか疑問になって来るのです。不信仰がアブラハムを襲って来るのです。
◎契約の再確認を示そうとする神にアブラハムはつぶやきます。「わたしに何をくださると言うのか?」と。何と傲慢な物言いでしょう。しかし、神はそのアブラハムに神の被造物である天を示されます。彼は信じます。ここには何の条件もありません。主キリストの十字架の血潮を信じて救われるのにも何の条件もないのと同じです。



2017年11月19日
「わたしは「主」(ヤハウェ)である 」<<出エジプト記6章1~13 節>>

◎本日の聖書の箇所を理解するためにはモーセが神さまと出会った事(3章)を知る必要があります。燃える柴の中に現れた神さまは自らを「私はあるという者」だとモーセに告げました(3:13)。 すなわち名前を教えていなかったのです。そして本日の箇所で初めて「わたしは主である」(2,3,6節)という名を明かされます。「主」という語に翻訳されていますが、「ヤハウェ」と発音するとされています。
◎モーセと兄アロンはイスラエルの民を出国させるようにエジプトの王ファラオに交渉に出かけますが逆効果でした。民の労働はかえって過酷になりモーセたちは民から抗議を受ける結果となります(5:21)。モーセは困り果てて再び主に訴え出ます(5:22~23)。本日の冒頭の言葉はそのモーセの訴えに主は「わたしの強い手によって」導き出すのだという神の力強い約束の言葉によって始まります。
◎人間が使命を受けるのは神の働きかけに拠ります。モーセにはイスラエルの民をエジプトから導き出すという大きな使命が与えられています。彼はそれをすぐに了解したワケではありません。それどころか反抗します。自分の説得力の無さに自信を失ってしまっています(12節)。
◎しかし、神さまは何度も自分の名をモーセに告げて示されます。「わたしは主である」(2,3,6節)。「主」であるお方は、先祖に与えた契約を思い起こし、イスラエルの民をエジプトの重労働から救い出し、約束の地に導き出すと。神の雄大なご計画は徹頭徹尾、愛の計画なのです。



2017年11月26日
「主は心によって見る」<<Ⅰサムエル16章1~13節>>

◎イギリスの清教徒たち(Pilgrim Fathers)が、国内の宗教的圧迫に抵抗し、メイフラワー号に乗ってアメリカに移住した後、厳しい冬を乗り越えて収穫の季節を迎え神様に感謝して礼拝を捧げた日です。アメリカでは収穫感謝祭(Thanksgiving Day)と呼び、収穫を分かち合う行事を行います。私たちも命と感謝を分ち合う事を覚えましょう。
◎イスラエル初代の王サウルは、「滅ぼし尽くせ」との主の命令に従わずに戦利品を奪い得意げにサムエルの前に立ちました(15章)。サムエルは激怒しサウル王をイスラエルの王として立てた事を悔い、彼を王から退けました。
◎主はすでに摂理の内にエッサイの子の中から次の王と
なるべき者を選んでおられました(先行の恵みです)。サムエルはエッサイにその7人の息子らを次々に目通しさせて選ぼうとしますが、どれも主の器ではありませんでした。サムエルは容姿・容貌に目を留めていましたが、主は心に目を注がれていたからです(7節)。
◎そこで羊の番をしていた末の子ダビデが呼び出されてサムエルの前に立たされます。「彼は血色が良く、目は美しく、姿も立派」(12節)とされています。 結局、容姿・容貌に目を注がれたように読めますが、そうではなく神の前にある堂々とした姿、信仰者としての姿勢が注目されたのです
◎「選び」とは神さまの主権に属することです。 既にルツ記において準備されていた器がいよいよイスラエルの救いのために油注がれ(メシア)、歴史の舞台に登場します。