2017年4月2日
「人の子は仕えるために」<<マタイ福音書20章17~28節>
○ゼベダイの子とはヤコブとヨハネのことですが、彼らは言うまでもなくガリラヤ湖畔で主イエスに召された最初の弟子たちです。彼らにはペトロが信仰告白をした最初の一番弟子となったことについての人間的な妬みがあったと思われます。そこに母親が絡んで「右と左」の地位につけてくれと言わしめます。(マルコでは自ら言います)
○彼らは人間的な欲望から地位・名誉を求めます。しかし、そのことの意味が分かっていません。主イエスは「私が飲む杯」と比喩的に自らの受難(十字架の贖罪的な死)に言及するのですが、彼らは「できます」と威勢は良いものの、「杯を飲む」ことの真の意味は理解できていません。人間の欲望と神の計画は両立するものではないのです。
○二人に出し抜かれたと知った残りの十人の弟子たちの憤慨と怒りは相当激しいものでした。しかし彼らもその思いは二人と同じく地位名誉にこだわっていたのです。そこで主イエスは彼らに異邦人たちのような権威・権力の使い方をするのではなく、仕える者となることを教えられます。仕えるとは犠牲を厭わないということです。
○主イエスは十字架にかけられると預言しながら、弟子たちはそれでも名誉と栄光を求めます。私たちもこの世で似たことをしていないでしょうか? 主イエスに倣うこととは十字架に向かって歩むこと、すなわち力や権威によって人の上に立つことを求めるのではなく、大きな苦難を伴う奉仕というワザによってのみ、神に評価される道を祈り求めて歩むことなのです。
2017年4月9日
「十字架を取り巻く人たち」<<マタイ福音書27章32~44節>
○十字架を取り巻く四種類の人々が居ます。先ず第一は兵士たちです。彼らは主イエスを徹底的にいたぶった後、十字架の足下で主イエスの衣類を分け合います。彼らの関心はただ自分の欲望を満足させることだけでした。
○二番目に左右に置かれた盗賊、三番目に通りすがりの人たち〔すなわち、これは私たちの姿と重ね合わせられます〕、さらに最後は祭司長、律法学者と長老たちです。彼ら全部に共通していることは主イエスをひたすら罵ることでした。「他人は救ったのに、自分は救えない」(42節)姿は侮辱する者にとっては惨めな存在でしかありませんが、これこそが神の子のお姿なのです。
彼らは神の子に向かって言います。「(自分たちを満足させろ)そうすれば、信じてやろう」と。 何と言う罪深き傲慢な姿でしょうか。
○主イエスは十字架による極限の肉体的痛みに加えて、彼らの罵倒にひと言の反論もなさらずに、ひたすら耐え忍ばれます。何故なら、そこにおいてこそが神さまの十字架の救いのご計画が完成するためであり、苦難の義人(詩編22編、イザヤ書53章)の預言が成就するためだったからです。あなたにとって十字架は何を意味しますか?
○さて拷問で傷だらけになった主イエスの十字架を無理矢理に担がされたキレネ人シモンの姿は、私たちの十字架への姿勢を教えてくれます。この姿を「強いられた恩寵」と呼ぶ方がいますが、シモンはこの体験を通して、家族がクリスチャンとなる祝福に与ったと推測されているのです。(→マルコ15:21,ローマ16:13)素晴らしいと思いませんか?
2017年4月16日
「復活の主を見届けよう!」<<マタイ福音書28章1~10節>
○マタイでは復活の主イエスを目撃する二人の女性が出てきます。どちらもマリアですが、一人は七つの悪霊を癒やされたマグダラのマリア。「もう一人のマリア」とは誰でしょうか?マタイの観点から見れば彼女はイエスの母マリアと推測できます(マタイ13:55)。何故でしょうか?
○彼女たちは「イエスの体に油を塗るために」お墓に行きます。しかしお墓の番兵の監視をくぐり抜けることも、封印された大きな石を取りのける算段もありません。封印された大きな石とは私たちの人生の苦難とそれ以上に私たちの罪の暗闇そのものと言えるでしょう。そのような人間の力ではどうしようもない現実の暗闇も神さまは上から、一方的恵み・愛で取り除いて下さるお方なのです。
○天使はこの女性たちに「主は甦らされた」と告げます。そしてさらに命じて「ガリラヤに行って弟子たちにも伝えなさい」と使命(mission)を与えられます。彼女たちは半信半疑(恐れながらも)ですが、すぐに応答して向かおうとします。その時、彼女らの前に主イエスが立ちはだかって「おはよう(原語は「喜べ」)」と声をかけられます。
○主イエスは逃げ去ってしまった弟子たち、もはや言い逃れのできないほど罪深きどうしようもない落ちこぼれの弟子たちを「私の兄弟たち」と呼ばれます。すなわち、この語には主イエスの一方的な赦しの宣言を聞き取ることができます。もはや単なる「弟子」ではなく、赦された「兄弟」なのだ、と。だからもはや「恐れることはない」のです。イエスと共にいることができるからです。
2017年4月23日
「しかし、神はイエスを死者の中から」<<使徒言行録13章26~35節>
◎本日の課題は宣教です。パウロの三度にわたる伝道旅行の第一回目、宣教師となったバルナバとサウロ(のちのパウロ)がどのように選ばれたか?それは教会で礼拝、断食、祈りが捧げられていた時に“聖霊”によって導かれた出来事でした。宣教は聖霊に支えられて進むワザです。
◎宣教の大原則、エネルギーの源も聖霊です。人間の思いや願いではありません。主の御旨を教えてくれるのは聖霊なのです。そして聖霊に従う時にのみ神さまの業は前進して行きます。
◎しかしそのワザも決して順調にのみ進むのではありません。聖霊は私たち人間に困難と試練を与えることを通して道が開かれて行くことを教えます。困難の一つは外からの妨害です。その地の呪術的な宗教や異教の教えなどで、それに従う人たちは反対することになるでしょう。
もう一つの妨害は内から来るものです。それは、あまりにも人間的な理由による教会の不一致(仲間割れ)として現れました。ヨハネはパウロらを置いてさっさと故郷へ帰ってしまいます。このどちらも神の国を推進しません。
◎パウロらは会堂に入って伝道を始めます。そこでパウロが取った宣教の方策は聖書に書かれてあるイスラエルの歴史に言及し、同じように聖書に預言されているように、イエスこそそのメシアであることを表明し続けることでした。 臆さずひるまず、ただ語り続けます。そのあとは、やはり聖霊が働いて下さることを信じて神の復活のワザを伝え続けるのです。
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