2017年5月7日
「私は復活であり、命です」<< ヨハネ 11章17~27節 >>
◎聖書には新旧を問わず復活の奇蹟物語が存在します。ヨハネ福音書ではこのラザロの復活物語が11~12章で現れますが、この後ユダヤ人たちが主イエスの暗殺計画をもたらすほどに、この出来事は衝撃的だったのでしょう。
◎マルタとマリアというこの有名な姉妹にラザロという兄弟が居たことはヨハネ福音書のみが記していますが、この姉妹の対称性は興味深いです。イエスはラザロの死の病を耳にしてから四日間も動きませんでした。マルタは向かって来るイエスを迎えに出て不満を言います。「もしあなたがここにいて下さったら」と。抗議にも聞こえます。あとから迎えに出たマリアも同じ言葉を口にします。
◎私たちは、「もし~~ならば」ということを日常的に口にしていないでしょうか?そのような過去にこだわる言辞は、はたして希望を生み出したことがあるでしょうか?ただ単に悔やみや悲嘆を生み出すだけではないか?
◎知識だけの信仰というのも同じです。「私は今でも承知しています。」(22節)、「存じております」(24節) 。知っているだけなら、果たして生きる力になるでしょうか?奇蹟がなければ消えてしまう信仰と言えないでしょうか?
◎私たちは一歩進んで「信じております」(27節) と告白できる信仰に成長して行かねばなりません。それは知識で理解できる世界をはるかに超えています。信仰とはイエスによる力、イエスが私たちの罪を贖い死に打ち勝つ復活されたその事実を信じることから来ます。復活信仰とはまだ見ていない事実を徹底的に信じることなのです。
2017年5月14日
「父とともに住むためには」<< ヨハネ 14章1~11節 >>
◎本日は19世紀にアメリカで発祥したとされる「母の日」を覚えて礼拝が守られます。元々は戦争で傷つく父や息子たちを守るという発想があったとされますが、創設者のアン・ジャービス氏はそれが商業主義(カーネーション商売)に堕した事を後悔したとも伝えられています。
◎「母の日」に「父」なる神のお話しに言及するのは変だと思われるかも知れませんが、神を「父」と呼び慣わすのは、イエスが「アバ、父よ」としたことに由来しますが、神さまに本来性別があるかどうかという難しい議論はさておき、神さまのもと(天国)へやがて帰るというのが私たちの信仰で、そこへ至る唯一の道が主イエスと信じるのです。
◎「道」はいくつもあって結局、頂上へたどり着ければ、どの道を通って良いのだという日本的な考え方があります。それは宗教的には多元主義と呼ばれるもので、結局、真理とは何かを曖昧にしてしまいます。「道」は単なる「技(能)」や方法論のことではありません。真理に通じるものです。
◎トマスとフィリポという二人の人物がイエスに訊ねます。「どこへ行くのは分かりません。」(トマス)「私たちに示してください」(フィリポ)。<この世>のことに目が塞がれてその心が暗くなってしまう時こそ、光なるイエスによって真理、命へと至る「道」が示されなければなりません。
◎キリ短の正門の正面に建学の精神として刻印されている「道、真理、命」という本日の聖句は、原文では「私(イエス)こそが、道・真理・命である」と強調されています。そしてこのお方を通らなければ、真理に至れないのです。
2017年5月21日
「主の祈りを祈るときには」<< マタイ6章5~15節 >>
◎いわゆる「山上の説教」(マタイ5~7章)の中心部に置かれている章で、その真ん中に「主の祈り」があることは興味深いです。 当時のユダヤ人(特に律法学者やファリサイ派の人々)の日常的義務として、「施し」(1~4節)、「祈り」(5~15節)、「断食」(16~18節)があります。
これらの三つを行うことが彼らの「義」を証明することにつながりました。
◎そしてその事によって人々の尊敬を勝ち取るのですが、その「義」を証明するために彼らが取った手段は自らの行為を、人々の前で見せびらかすことでした。 主イエスは彼らのそのような行為を「偽善者」(元々は俳優という意味)の行為であるとして厳しく断罪しました。
◎私たちも人の目を気にしつつ生きています。 他者から高い評価を受けるために、背伸びしたり虚勢をはったりしていないでしょうか。私たちが常に意識しなければならないのは他人の目ではなく「神さまの目」です。
◎私たちが神さまの目を真に意識して生きるための生き方とはどのようなものでしょうか? 主イエスが教えられたのは「人に見てもらおう」とする生き方と全く反対のものでした。「隠れたところ」「隠れたこと(施し)」(6節)こそが父に見られており、その隠れたことだけに神さまが報いて下さるというのです。 それは他者の目ではなく、神さまだけに真摯に向き合う信仰の生き方に他なりません。
◎ユダヤ人とは異なったキリスト者の義の中心に「祈り」があり、主イエスはその祈り方を言葉遣いから教えて下さったのです。 「主の祈り」で神に栄光を帰するのです。
2017年5月28日
「主キリストの昇天の意義」<< ルカ24章44~53節 >>
◎暦では25日(木)を「(主の)昇天日」としています。これは主イエスに対してのみ使用される言葉で、ルカ(福音書と使徒言行録)のみが記している出来事です。パウロ書簡その他にはありません。だから価値がないという見方をしてはいけません。 復活の主が「天に昇って」その場所で私たちを祝福していてくださるのだという信仰が、私たちを終末の希望に備えさせてくれるのです。
◎「彼らの目を開いて」(45節)とあります。直接的には弟子たちに言われているのですが、明らかにこの直前の記事であるエマオに向かう(逃げて行く)弟子二人の記事と深く関連しています(13~27節)。 彼らは共に寄り添って歩いている主イエスを認識することができません。何故でしょうか?心の目が開かれていなかったからです。彼らは十字架にかかって死なれ、墓に葬られてしまったイエスに期待を裏切られて、そして婦人たちから「復活した」との噂すら知っていたにもかかわらず、信じていません。
◎ここで目とは明らかに心の目、霊的な目を意味しています。私たちは現実を見る時、絶望しか見ることができないことが多いです。先週のテロ事件もそうです。そして、主がこの世界を支配しておられることを信じることがなかなかできません。
◎しかし、主イエスによって私たちは「証人」になること(48節)、そして「神殿で・・・神をほめたたえる」こと(53節)が求められており、そのために神さまは聖霊をお送りくださってそれらを可能にして下さるのです。
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