2017年6月4日
「聖霊のご支配のもとへ」<< 使徒言行録 2章1~13節 >>
◎五十を表すペンテコステはイースターから七週を数え終わる日を指し、ユダヤ教では七週祭、刈入祭になります。
「使徒言行録」の著者ルカは福音書の最後(24章)の復活から昇天に至る記事の帰結として、聖霊の賦与を通しての「教会の誕生」を約束されていた出来事として描きます。
◎それは「突然」のしかも超自然的な出来事として描かれているように見えますが、そこには見逃してはならない前提があります。何かと言いますと「一同が一つになって集まって」(2:1) いたことです。十二使徒も含めて120人ほどの弟子たちとされています(1:15)から、相当に大きな場所(神殿?)であったと考えられます。 一致して集まった!
◎聖霊の賦与は大きな音や炎のような舌として表現される超自然的現象ですが、その意義は混乱し、バラバラに散らされた人間の社会と言葉(創世記9章)を理解し合うことができるようにすることです。そこに誕生したのが私たちが「聖なる公同の教会」として告白する共同体なのです。
◎私たちは十字架の前で逃げ出した弟子たちのように、また復活の知らせを聞いても本当の意味で信じることができない弟子たちのように、そして昇天される主を呆然と見送った弟子のように弱く小さな人間のままです。
◎しかし、まさに主が昇って行かれたその天を見上げつつ、十字架の主を中心に自らを捨てて、心をひとつにして集められる時、主は約束の聖霊を賜物として与えて下さる。それは理解と一致の言語を伴い、私たちを宣教へと駆り立てて行く「教会」をもたらして下さったのです。
2017年6月11日
「誰を遣わすべきか」 << イザヤ書 6章1~8節 >>
◎聖霊降臨日に続く(日)を三位一体主日とするのは、父なる神が子なる神=イエス・キリストをこの世に派遣し、その後、父なる神と御子イエスが聖霊を派遣すること(ペンテコステ)で私たちの救いの業を完成させたことを代々の教会が心に刻むために他なりません。
◎「父と子と聖霊の名によって」(マタイ28:19) と三者が一体のものとして、教会が戦いとって来た真理に私たちも固く立って、この世に派遣されて行きます。それは教会が宣教の業のために立てられていると言うことでもあります。
◎聖書は大局的に見るならば「神の派遣」を主題としています。アブラハムを召しだしカナンの地へと送り出す事。ヨセフが無理矢理エジプトに売り飛ばされた事。エジプトの地から民を救い出すためにモーセを誕生させたこと。
◎旧約の預言者たちは神の言葉を民に伝えるために派遣されます。彼らは民を悔い改めさせて救い出す事が大きな役目です。それに従わない民に審判を送るのは父なる神の役割です。イザヤは困難な時代にユダ国に派遣されます。アッシリアという大国の侵攻を目の前にして、そのメッセージは強者(エジプトの国、軍馬・・)に頼るのではなく、静かに神に信頼している事でした。 まさに信仰です。
◎イザヤの召命物語を通して学ぶのはさて、私たちは何の目的でどこに派遣されているのかという問いです。この世に遣わされたのは単なる偶然でしょうか?神さまは常に一人一人に問いかけておられます。神の大いなる愛に応えて遣わされるべきはあなたなのです、と。
2017年6月18日
「知られざる神に祈る?」<< 使徒言行録17章22~34節 >>
◎アテネは言うまでもなく古代世界の学芸の中心地で、哲学者たちが覇を競いあって栄えていた都市です。しかし町のあちこちに、人間の数より多いとも言われる神々(+その偶像)が置かれ崇められていたのです。そして、パウロはその光景の中に「知られざる神に」と書かれた祭壇を目にして憤りを覚えざるを得ませんでした(16節)。
◎ユダヤ人であるパウロは厳格な一神教の教育を受けていますから、多神教的な考え方を受容できないのは当然です。キリスト教は厳密には三一神的な考え、すなわち「交わりの中にある神さま」という考え方をし、被造物である人間は神との交わりと同時に人との交わりの中に生きることが求められていると言えます。その結び目が愛です。
◎パウロの押さえがたい感情は、当時、評議所(裁判所?)があったとされるアレオパゴスの真ん中へ押し出します。そして彼の説教が始まります。天地を創られた神がいる!これは偶像礼拝をしている彼らには新鮮であった筈です。しかし同時に大きな反感をも伴いました。パウロは簡潔に創造主なる神について、審判者なる神について、そして救い主なる神について語ります。
◎この箇所を読めば読むほど、日本の宗教的な状況(やおよろずの神々)に何と似ていることかと思わされます。そして彼らのキリスト教に対するあざけりと無視(32節)という反応も同じではないでしょうか。「しかし信仰に入った者も何人かいた」(34節)事実は、神さまは我々の宣教の働きを決して無にされないという事でもあるのです。
2017年6月25日
「地の塩、世の光り」<< マタイ 5章13~16節 >>
◎暗誦してられる方がいるほど良く知られた聖書の箇所です。まず、素直に聖書を読んでみましょう。「地の塩になりなさい」とも「世の光となりなさい」と命令形で書かれているのではないことにまず注目してください。すでに、あなた方は主イエスを信じる時、そのままの姿で「地の塩」であり「世の光」であると言われているのです。
◎塩は言うまでもなく、味付け・防腐・保存に用いられます。 しかし、塩がかたまりとして使用される時、それは用をなさず害にすらなります。どんな料理でも塩は少量あれば充分ですが、全く使用しないワケに行きません。塩が真の力を発揮するのはその姿が消えてしまった時です。見えない形で隠れて働くのです。自己主張ではなく、主にある謙遜・謙虚さが地の塩として他者に有益な存在となる。
◎塩が隠れて働くのに対して、光は反対にあらわになってこそ役立ちます。もちろん、真の光は「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」(ヨハネ8:12)と言われた主イエスご自身です。私たちがこの光であるお方を内に持つときに、どんな小さく弱い光であっても、暗闇を照らし、行く道を示します。
◎私たちが置かれているこの世界、そこには「敵意、争い、そねみ、怒り、利己心・・・」(ガラテヤ5:19以下)という肉の業が満ちあふれています。そんな世界に対して、主は大それた事を命じられたのはありません。たじろぐ必要はないのです。光なる主イエスをしっかりと心に保つ時、主イエスご自身が私たちを通して地の塩として働き、輝くのです。
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