2017年8月6日
「和解させるのは、キリストの愛のみ」<< Ⅱコリント書5章11~21節>>
◎「平和」を表す「シャローム」というヘブライ語は、通常の挨拶語「こんにちは」替わりに使われます。何よりもその意味の根底には神さまとの和解という概念があります。和解があってこその安定、安心、平和だと言えるからです。
◎しかしこの世界に最も欠けているものはまさにこの「平和」です。 人と人は争い、傷つけ合い、国と国同士は相手を(軍事・経済力で)屈服させてしまうことを「平和」と言っているようですが、もちろんそれは偽りの、そして一時的な平和に過ぎません。エレミヤは「平和がないのに、平和」と叫ぶ民の愚かさを嘆いています(エレミヤ6:14)。
◎Ⅱコリント書はパウロがその反対者たちに対して、自らの使徒職を擁護、弁護するために書いたとされるので、感情や個性が比較的露骨に文章に現れています。
◎反対者たちはパウロが福音を無報酬で(11:7)伝えていることが気に入りません。 そのような人物をパウロは「外面を誇っている人々」(12節)として批判し、自らは「キリストの愛に駆り立て」られた者(14節)として、神自らが差し出された主イエスの十字架の和解の手を受け止めることで、反対者たちにも「神と和解させていただきなさい」と薦めるのです。それなしにはどのような和解もエレミヤの言うような一時的な安逸、偽りの平和に過ぎなくなります。
◎この和解を可能とする方こそ主イエスであり、私たちはこの人の贖いの愛と結ばれて生きる時にこそ、「新しく
創造された者」として和解の役割を果たせるのです。
2017年8月13日
「弟子の仲間入り」<< 使徒言行録9章26~31節>>
◎サウロ(後のパウロ)の生涯で最も重要な出来事がこの9章で起こります。言うまでもなくそれは彼が復活の主イエスに出逢い、完全に生まれ変わったということでした。
それまでのサウロは主の弟子たちの迫害に命をかけていた事が窺えます(9:1)。 出逢いは主の側から起こりました。
◎生まれ変わったパウロはそれまでの迫害者としての生き方を一転させて、主の福音を熱心に伝え始めます。ガラテヤ書に拠れば3年間の退修(リトリート)のひとときをアラビアで持ったことが記されています(ガラテヤ1:16~17)。祈りと御言葉の学びに費やされたのでしょう。
◎そして、まずダマスコに戻って行きますが、パウロの様変わりの姿をこころよく思わないユダヤ人たちから今度は命を付け狙われる羽目に陥ります。そこで、パウロは仲間たちの助けを借りて命からがらその町を逃れ、エルサレムにやって来るのです(24~25節)。
◎しかし、エルサレムの弟子たちはパウロをすぐに受け入れてくれたワケではありません。それどころか、彼に対するあらわな疑いのまなざしを隠そうとしません。パウロの迫害者としての過去を思えば致し方ないことです。
◎ここに、バルナバ(「慰めの子」という意味)という執り成しをする人物(4:36節)が現れます。彼は自分の家を教会として提供していましたし、自分の財産を貧しい教会のために捧げることさえしました。教会の働きにはこのような執り成しと献金と奉仕い生きる人物が必要なのです。
2017年8月20日
「神にあなた方を委ねます」<< 使徒言行録20章17~35節>>
◎パウロはエフェソで3年もの間、人々と労苦を共にしました。それは「涙を流して教える」(31節)というほどの伝道でした。しかし別れの時は来ました。それは聖霊によって語られる「時」であります。パウロはエフェソの長老たちを呼び寄せて、長い告別説教をします。
◎教会に牧者や働き人が居なくなる。これは悲しみであります。パウロにとっても離別することは断腸の思いだったに相違ありません。しかし、彼は泣き言を述べたのではありません。また、私が居なくなったらこうしなさい、ああしなさいと人間的な処方箋を語ったのでもありません。
◎パウロは何よりも先ず、大切な信徒や指導者を神の言葉に委ねたのです。→「神とその恵みの言葉とにあなたがたを委ねます」(32節)。これが信仰なのです。たとえリーダーが不在となっても、神の立てられた教会には神とその御言葉がおられ、そして私たちを導いていて下さるのです。何と言う全き信頼でしょうか。高齢化だとか牧師不足だとか心配事ばかりが先立つ時代となっています。しかし、本当に大切なのは委ねるということ、信仰なのではないでしょうか。
◎パウロの決断は聖霊に促されたものです(22節)。聖霊に捉えられていると言った方が良いでしょう。聖霊が捉えたのなら、人間は誰も拘束できません。聖霊の業、働きを信じましょう。人間は効率を求めます。しかし、聖霊は奇跡を起こします。宣教はそこから始まるのです。
2017年8月27日
「私を愛しているか」<<ヨハネ 21章15~19節>>
◎イエスは復活して後、三度弟子たちの前に現れた(ヨハネ20:19-、20:26-、21:1-)。しかし、弟子たちの中で特にペテロは主の復活を半信半疑の思いでいました。主の二度目の顕現後にも、ペテロは以前の漁師の生活に戻っていたのです。
◎ペテロのキャラクター:元漁師。セッカチな性格でしかも積極的なので、行動に失敗が多い。何も考えずついつい発言してしまうため、言葉にも失敗が多い。しかし、その単純さと純粋さのゆえに、失敗が多くてもイエスに好かれる弟子であったと考えられます。(几帳面な使徒ヨハネとは正反対の性格です。
◎ヨハネ21:1-:ペテロは誰よりも先に、主の弟子としての生活を清算し、漁師に戻っていたが、そこに主が現れると、誰よりも早く主の元に向かって行った。そのペテロにイエスは三度、同じ質問をする。「わたしを愛しているか」と。
◎自信のない返事をしてしまったペテロに、主はご自身の羊を委ねる。主に対するペテロの信仰よりペテロを信頼する主の愛が大きかった。その愛を体験した後、ペテロは二度と主を裏切ることをせず、信仰に始まって愛で完成することを強調している(Ⅰペテロ1:5)。
◎主を愛することとは、主の御ことばを守ること(ヨハネ14章)、それが私たちに向けての主の最大の関心事でもあるのです。
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