2017年9月3日
「目に見えないものを待ち望む」<<ロマ書 8章18~25節>>
◎パウロは「現在の苦しみは・・・取るに足りない」(18節)と言います。最近のハリケーンや豪雨災害を前に立ちすくんでいる被災者に「取るに足りない」苦しみだ、と誰が言えるでしょうか。それは傲慢な言い方になります。しかし、そこでとどまらずにその向こうにある栄光(希望)に目をとめない限り、それはいつまでも絶望に終わります。
◎私たちの「現在の苦しみ」は何でしょうか?病気を筆頭に肉体的な苦しみ、人間関係の破綻や経済的な苦しみがあるでしょう。そしてやがて迎える死への不安もあります。
パウロはそれを「被造物」(人間も含めたこの世界全体)が虚無に服した(20節)と難しい表現をしますが、それは人間の罪によって救いが存在しない状態を指します。
◎しかし、パウロは「産みの苦しみ」(22節)という表現もしています。これは新しい命の誕生を待望できるから、その苦しみを忍耐できるということです。それがない無意味な苦しみは目標も目的もない死をもたらすだけです。イエス・キリストによる十字架の贖罪は「産みの苦しみ」の向こうにある新しい命の誕生を約束してくれます。
◎だから希望を語ることができるのです。希望、待ち望むという語がここで9回も使われています。今は見えないかも知れない。でも、見えているような希望は本当の希望ではない。見えていないからこそ、待ち望むことができるのだ、パウロはこのように語ります。その希望をキリストを通して待ち望みつつ生きるのが私たちの信仰なのです。
2017年9月10日
「朽ちるもの、朽ちないもの」<<Ⅰコリント書15章50~58節>>
◎「コリント書」を書いたパウロは当初、キリスト教徒を激しく迫害する側にいました。しかし、ある日突然、十字架にかかって死んだ筈のイエスに出逢って生まれ変わってしまいます。そして、あらためて聖書を読み直した時に自分は分かったつもりでいたことが全く反対の意味であった。自分は何も分かっていなかったことに愕然とします。
◎死への不安の前に恐れを抱いたパウロは「自然の命のからだ」と「霊のからだ」の違いに言及して(44節)、「永遠のいのち」を求め始めます。そしてそれは主イエスによって与えられる復活のいのちであることに気づきます。彼は力強く「朽ちるもの(=自然のからだ)が朽ちないもの(霊のからだ)」を受け継ぐことはできないと語り始めます。
◎お墓も永遠のものではありません。家族ですらそうです。100年後に誰が私たちのことを覚えていてくれるでしょうか?パウロはここで「朽ちないもの」を「着る」という表現をします。「着る」とはどのすることでしょうか?私たちは時と場所に応じて着るモノを使い分けます。しかし本当に心の衣装に気を配ったことがあるでしょうか?
◎永遠に「朽ちないもの」「死なないもの」を着るとは、主イエスを着ることです。どのようにして着るのか?主イエスへの信仰を通して生きるのです。信仰とは主イエスのお言葉を身にまとって生きることです。それが永遠の命へとつながると信じることです。誰もが忘れても、永遠に私たちひとりびとりを忘れる事のない神さまはいるのです。
2017年9月17日
「キリストの十字架を空しくせず」<<Ⅰコリント 1章10~17節>>
◎パウロは「勧告します」。何故でしょうか?それは「勝手なことを言い合い、仲違いして、心や思いを一つにできない状況がコリントの中にあるからです。何故、そのような分裂が起こるのか?相手の意見もそうですが、他者の存在そのものを人間として受け入れられない。そこには自分が他人よりも優秀だという傲慢があるからでしょう。
◎人類はいまだに肌の色や人種、国籍で差別し合っている姿が存在しています。言葉が違うということで差別し合う。ギリシア語には「バルバロス」という意味の分からない言葉を話す人を指す語がありますが、それはすべて野蛮人を意味しています。差別体質は大変、根強いのです。
◎コリントの教会の中にもアポロ派、ケファ派、そしてパウロ派という対立があったことが想像されています。しかし現実にはパウロとケファ(ペトロ)は少々の意見の差はあったとは言え(ガラテア書2章)、異邦人に対する救済史的意義は二人の友好関係にあったことは間違いありません。実際には教会の人たちが弟子たちの名前をかかげて人間的な党派を作り、自己主張をしていたに過ぎません。
◎そしてそれはすべての人の贖いのために十字架で命を捧げられたキリストの存在とその意義を空しくしてしまうことにもつながります。そのような自分勝手な有能さや能弁、大物ぶりを誇ることは「言葉の知恵」に頼ることです。そうではなく「福音(のみ)を告げ知らせる」ことこそ、この世界に和解をもたらすことができるのです。
2017年9月24日
「人を分け隔てせず」<<ヤコブ書2章5~13節>>
◎私たちの心の中に「人を分け隔て」する思いがないと断言できる人はおそらく居ないでしょう。そう思っていたとしても実は無意識に人をえこひいきする行動を取ったり差別しているのが悲しいことに私たちの現実なのです。
◎ヤコブは教会の中にすらそのような主イエスの教えとは真逆の姿勢を取る人たちが居ることを非常に具体的に指摘します。そしてそれは単に差別にとどまらず、貧しい人を苦しめ追いやるばかりではなく、主の教えに全く反することです。神さまは「貧しい人たちを敢えて選んだ」(5節)と語ります。これは私たちがどちらの側に立っているのかと自らに問われていることでもあります。
◎フリーメソジストの発足時にも同じような事がありました。献金額に応じて教会の席が決められるという差別に対してB.T.ロバーツは抵抗の声をあげ除名されました。
神の恵みはすべての人に対してフリーに注がれます。そのことを忘れた時、主イエスの十字架は空しくなります。
◎ヤコブは律法(ここでは「十戒」)を一つでも守らなければ意味がないと厳しく指摘しているように思えます。しかし、それは貧しい人たちに「憐れみをかけない者」(13節)に対して言われていることです。むしろ、「憐れみは裁きに打ち勝つ」とあるように、私たちが貧しい人たにどのように接するのか、特に教会の中だけでなく周囲に居るその人たちへの福音の表し方につながります。私たちも主イエスの愛に倣いつつ福音に生きる者となりましょう。
|