2018年1月1日
「主が新しいわざを始める」<< イザヤ 42章 1~9節 >>
◎今年は阪南キリスト教会にとっては「創立70周年」という特別な年を祝うことになります。 周年事業委員会、役員会を通して、幾つかの記念行事を計画し、実行して行くことになりますが、皆さま方にありましてもお祈りとお捧げを通してご協力をどうぞよろしくお願いいたします。
◎さて聖書で「70年」という期間はどのように見られているでしょうか?何よりもそれはイスラエルの民が捕囚として苦しめられていた時間の長さです。「人生の年月は七十年程のものです。」(詩編90:10)とも言われた当時の人々にとって、捕囚は数世代に渡る異教からの挑戦と世俗化との戦いでもあります。そのような中で、ほとんどの人々が不信仰と偶像の世界に飲み込まれて行く中で、主からの希望を通して信仰を取り戻す戦いの期間でもあります。
◎何をもって希望は現実となるのか?人間はさまざまな取組をするでしょうけれども、最終的には主からの助けこそが真の希望となり得るのです。
本日の聖書箇所は第二イザヤと呼ばれる匿名の預言者による「捕囚からの回復(帰還)」預言です。 40章1節「慰めよ、わたしの民を慰めよと」 と語りかけ始めた預言者は、神さまが送られる「主の僕」に目を向けさせます。
◎「わたしの僕」(1節)は猛々しい勇者の姿をしているのかと言えば、それは全く逆です。「彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。傷ついた葦を折ることなく」(2~3節)と弱々しいお姿なのです。本当にこの人で大丈夫なのと思われるかも知れません。 しかし、神さまが「わたしが支える者」(1節)と言われます。主イエスは飼い葉桶の中に弱々しい赤児として産まれたではないですか?
2018年1月8日
「神にも人にも愛され」 <<ルカ福音書 2章41~52>>
◎ルカ福音書だけが遺した少年時代のイエスを知ることができる唯一のエピソードです。 この記事を通してルカは何を伝えたかったのでしょうか?それは父なる神と御子イエスの深い結び付きであると言って良いでしょう。
◎律法によると(出エ23:14,17等)成人(13歳以上)は年に三度、エルサレムに参拝しなければならないことになっていました。 信仰深い主イエスの両親はせめて過越祭だけはということでエルサレムへ数日かけて旅をするのが彼らの慣習となっていました。 12歳の少年イエスが連れて行かれたのは将来の備えのためと想像されます。
◎帰路に問題が生じました。 イエスが同行していないのに気付き、当初はすぐに戻るだろうと思っていたのが、大騒ぎとなりエルサレムへと引き返す羽目となったのです。そこで少年イエスは律法学者たちと対等に、しかも賢明な議論をしていたことを発見します。 非常に心配もし、イエスに注意をした両親に対して「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」とかなりぶしつけな応えに両親は困惑の思いを隠せません。
◎この逸話が私たちに教えることは何でしょうか? 主イエスの神童ぶりと考えるにはあまりにも皮相過ぎます。 「自分の父の家」と言っていることは、すでに神さまを父として自覚しておられること、すなわち「神の子」であることの表明です。それは私たちも「神の子」である信仰者として生きることができるという招きでもあるのです。
2018年1月14日
「イエスキリストの福音の初め」<<マルコ福音書 1章9~13>>
◎マルコ福音書は「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」
とのイザヤ書40章の預言(12/17週報参照)がバプテスマのヨハネによって成就して行く有様から語り始められます。 ヨハネは自らの使命を徹底して自覚していました。
彼は徹頭徹尾、後から来られる方を指さしたからです。
◎そのようなヨハネの謙虚さ以上に謙虚なお姿で活動を始められたお方が主イエスであります。マタイの記述に拠りますと「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべき」と思いとどまらせようとしたにもかかわらず、「ただしいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」(マタイ3:14~15)と応えてヨハネから洗礼を受けるのです。
◎主イエスは謙遜を以てこの世に現れました。このへりくだるお姿は十字架の死に至るまで続きます。 それは「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(1:11)と宣言を受けた神の子であるにも関わらずであります。神の子であるからこそと言い換えたほうが良いかも知れません。「人の子は仕えられるためではなく仕えるために」(マルコ10:45)この世界に生き、そして我らの贖いとなって死なれたのです。
◎主イエスは私たちがこの世で受けるのと同じ苦しみを受けられました(12~13)。 神は手の届かない所におられる神ではなく、私たちに寄り添い共におられる神となるためです。それがインマヌエルの神です。
私たちは試練を恐れる必要もなく、主イエスの謙遜な姿にひたすら学びつつこの世に仕えて行くことが私たちの伝道の業なのです。
2018年1月21日
「人間をとる漁師になりなさい」 <<マルコ福音書 1章16~20>>
◎主イエスは四人の弟子たちを招かれます。それは4人が生きる目標が与えられたということです。主イエスの招きは「御覧になる」ところから始まりました。それは私たちの特別な姿とか晴れ舞台を見たのではありません。私たちの日常生活に注目されたのです。失敗したりくじけて落ち込んだりする我々の普通の姿に注目されたのです。
◎次にどのような人たちに注目されたのでしょうか?それは漁師という当時としては最もありふれた職業に従事する人間を「御覧になら」れたのです。 特別に優秀な人物、エリートに目をとめられたのではありません。この世的に成功したような人物をではなく、普通の人々を選ばれたのです。そればかりではなく、のちに明らかになるように
ユダのような人間をも選ばれ、その働きを共にしようとなされたのです。それは主の憐れみでしかありえません。
◎私たちはこの招きに応えることしかありません。それは私たちの人生を主に従って歩む決心をすることです。招きに応えるという英語は「責任」という意味になります。生きるということは主に対して「責任」を果たすことなのです。主の選びは私たちの人間的条件に根拠はありません。
◎さて、このように選ばれた私たちは主の器として教会(主の共同体)に招かれ宣教の働きに押し出されます。 「人間をとる漁師」とは神の協働者となることです。 神に召された普通の人は成長させて下さる主を信じ、見上げて伝道のために働く者として踏み出して行きましょう
2018年1月28日
「御言葉の種に生かされる」<<マルコ福音書 4章 1~9節>>
◎例え話は私たちの単語ではとても説明しきれない大きな存在を指し示すために用いられます。主イエスはその例え話を分かり易く伝えられる達人だったと言えます。
◎「種」は「神の言葉」(14節)と解説されます。すると「種を蒔く人」とは福音の伝道者という理解で良いでしょう。彼らはありとあらゆるところで神の言葉を語ります。いつの時代にあっても神の言葉は蒔かれ続けて行かねばなりません。しかし、蒔いた種が必ず育つとは限りません。
◎種が育つには条件が必要です。植物の種と同じです。幸いなことに神の言葉が成長する条件は、人間の外面的なところ-すなわち地位や名誉や、富や権力等にはありません。それらは条件ではないのです。神の言葉が育つ条件とは神の言葉を受け入れる姿勢や態度にあるとされます。
◎態度や姿勢ですから、私たちの努力で変えることもできます。(厳密には変えられて行くが正しい)また、性格でもありません。性格は簡単に変えることはできませんが、神さまはどんな人をも御言葉によってあるがままの姿でつくり変えてくださるのです。
◎「神の言葉の種」を受け取る条件が四つ示されています。その時代に応じて前者の三つは様々に解釈されて来ました。大切なのは最後の「良い土地」です。それは「御言葉を聴いて受け入れる人たち」(20節)と解説されます。ここには私たちの優秀さというよりも素直さという「普通」が強調されているように思えます。
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