本文へスキップ

日本フリーメソジスト教団阪南キリスト教会のホームページへようこそ

阪南キリスト教会 / hannan christ church 

                   本日の説教より 

2018年2月4日
「主はその人たちの信仰を見られた」<<マルコ福音書 4章 1~9節>>

◎マルコは4人の弟子たちが従った後に、彼らに対して様々な驚くべきいやしの奇跡を見せて行かれる主イエスの姿を描きます。 それは悪霊を追い出される力強いお姿でもあります。 そのために主イエスの評判はガリラヤ中にたちまち広まり、人々は癒やしを求めて押し寄せます。
◎直前の記事(1:40~)では主イエスは律法で触れることも近づくことも許されていない重い皮膚病の人に触れていやしをなさいます。 あえて律法を破ることを批判されるよりも病んでいる人を癒やされることを優先なさいます。単なる癒やしにとどまらず、「清め」という社会復帰を伴う事柄、全人的な癒やしをなされたのです。
◎「中風の人物」は社会的な隔離を必要とされる程ではありませんでしたが、大きな疎外感の中にあったことでしょう。しかし、今日の中心人物は「中風の人物」ではなく、彼を運んで来た4人の人たちです。彼らの大胆な行動、「屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろ」(4節)すという滑稽なまでに大胆な行動が主イエスの目にとまるのです。「イエスはその人たちの信仰を見て」反応されます。彼らのような行動に対して、片や何もしないで見て批判するだけの人々がそこにはいます。即ち、律法学者たちです。
◎信仰とは病んだ人、弱っている人たちや困難な中にある人たちをどんな困難を越えても主イエスの足下に連れて行こうとする共同体的なものです。そのような信仰に主は報われるのです。ですから信仰は賜物なのです。



2018年2月11日
「なぜ怖がるのか、まだ信じないのか」<<マルコ福音書 4章35~41節>>

◎「向こう岸に渡ろう」という言葉は私たちの人生への挑戦のように聞こえます。 ありきたりの日常生活を断ち切って新たな生活に踏み出すようにとの主イエスからの促しなのでしょうか?わざわざ渡って行く所には一体何が待ち受けていると言うのでしょうか?
◎5章を見るとそこは異邦人の土地で主イエスの一行を迎えたのは墓場を住処とする汚れた霊に取り憑かれた人間でした。 手の施しようがない人物が彼ら一行を迎えたのです。そして主イエスは彼の霊を豚の群れの中に追いやることで彼を癒やされます。 その後、再び湖を渡って戻って来られます。そんなことのためにわざわざ出かけられたのですが、そこまでする必要があったのでしょうか?
◎試練は湖を渡る途中で起こります。夕方は嵐を予感させる時間帯とされます。その時間帯を敢えて選んで湖に向かって行かせます。漁師である弟子たちは分かっていた筈です。この時間に出かけるのは無謀ではないか、と。案の定、嵐はやって来ます。そして操船に手慣れた弟子たちですらも扱いかねる事態に直面します。しかし、主イエスはと言うと、そんな状況でも平然と眠っておられるのです。
◎弟子たちは「わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」
と文句を言います。主イエスは自然に命じてひと言で事態を沈静化させます。 主イエスとともにあるのに、その事を忘れて人間的な努力の空しさで不平を言う何と愚かしいことでしょうか。 主イエスは常に近くにおられるのです



2018年2月18日
「新しい契約」<<エレミヤ書 31章27~34節>>

◎日常生活の中で「契約」という語を意識することはほとんどないと言って良いでしょう。 しかし、柔らかく表現するならば私たちは「約束事」に従って生きていると言えます。 学校・会社の始業、就業時間、電車の時刻表、現金やカードでの物の売買等、すべて当然の如く生活しています。契約がなければ生きて行けない社会に住んでいるのです。
◎「新しい契約」という語は旧約聖書ではこのエレミヤ書にのみ現れる表現です。 この語が「新約」(聖書)という言葉とつながって行きます。 それに対し「旧約聖書」という語は字の通り「古い契約」ですが、これには二通りあるとされています。 一つはアブラハム、ダビデと結ばれた一方的な恵みの契約。 もう一つはモーセと結ばれた「シナイ契約」で、一般に「律法」と呼ばれています。
◎この二つの大きな相違は人間が救われて生きて行くためには"条件"が必要かどうかです。 律法はそれを守って行うために存在します。 しかしそれは私たちに救いを保障しません。 その証拠に旧約聖書の民は律法を守らなかった故に、その罰として多くの困難と共に敵の前に滅ぼされる経験をします。 その最大のものが「捕囚」でした。
◎それに対して「恵みの契約」は私たちを救いへと約束してくれます。 主イエスはそのために十字架にかかって救い(私たちを罪から贖い出す)を完成されました。そして律法の終わり(完成、目標)となられました(ローマ10:4)。エレミヤの預言は主イエスにおいて成就していると言えます。