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阪南キリスト教会 / hannan christ church 

                   本日の説教より 

2018年3月4日
「あなたに問う。私は誰か?」<<マルコ福音書 8章 27~33節>>


 ◎フィリポ・カイサリアにおけるペトロの信仰告白として有名な箇所です。
「人々は何者だと言っているか」という問いが先にあります。 しかし、その次に弟子たちに対して「あなたがたは何者だと言うのか」と問いかけます。問われている主語に注目しなければなりません。これは、私たち一人ひとりに問いかけられている問いなのです。
 ◎ペトロは「あなたはメシア(=キリスト)です」と決定的な応答をしました。メシアは旧約では油注がれた人を意味しています。それは王であり預言者でもあったのですが、主イエスの時代には自分たちを救い出してくれる「救済者」を意味する言葉となっていました。
 ◎私たちは日常的に出逢う人々を自分にとって「誰」であるかを決めています。ある人は家族であり、親友であり、同僚である等と。しかし、そこに救済者はいますか? 命の恩人ならいるかも知れません。 しかし、その人は私の死後の救いまで保証してくれますか。
 ◎「あなたはメシアです」と告白する。これが私たち信仰者の出発点です。いつもここに戻って行かねばなりません。教会生活はこの点をいつも確認する。それが礼拝でもあります。なぜなら、日常生活に戻る時にすぐに人間的なことが優先されてしまうからです。ペトロは世間体や処世術から、たった今「キリストです」と告白した主イエスをいさめ始めます。キリストの上に立とうとするのです。イエスこそメシアなることを忘れてはなりません。





2018年3月11日
『 主イエスの山上の変容を前にして 』<<マルコ福音書8章27~33節>>

◎東日本大震災から8年目に入る日となりました。 被災地で苦しまれている方々、特に今なお十数万人に及ぶ避難生活を強いられている方々とそこにある教会の働きをを覚えて、先ず祈りを捧げたいと思います。
◎先週のペトロの「あなたこそメシア」発言に続く記事です。 ペトロはメシア発言に続けて主イエスを諫めるという失敗をしでかしました。 そこで人間存在の愚かさを示したのですが、本日の箇所でもそのダメっぷりは相変わらずです。「十字架を背負って、わたしに従い」なさい(34節)の意味が本当に分かっていないからです。
◎主イエスは弟子たちを高い山に連れて行かれます。「高い山」とは聖書では神さまの御旨に聞くところです。モーセもホレブ山に登りました。 ここでも主イエスが主導権を握っておられます。 私たちは日々の生活の中で主に導かれつつ、信仰の高峰に上って行かねばならないのです。
◎弟子たちのダメっぷりは、「主の変貌(変容)体験」と呼ばれる出来事を目前にしたペトロの「どう言えば良いのか分からなかった」と言われるワケの分からない「三つの小屋を建てましょう」発言に現れています。 これは自分たちが指導者となるという愚かさ、傲慢から出たものです。 ここには「十字架を背負う」という主の苦しみに倣う決意はどこにも見られません。 私たちも豪華な神殿ではなく、荒れ野の幕屋(仮小屋としての教会)で、主に出逢い、主を礼拝する体験と恵みを積み重ねて成長したいものです。



2018年3月18日
『 人の子はすべての人の贖いになられた 』
<<マルコ福音書10章35~45節>>

◎先週はペトロが「三つの仮小屋」を建てようとの発言で主イエスに十字架に至るまで従って行く意義を教えられました。 今週はペトロ以外の2番弟子たち-ゼベダイの子ヤコブとヨハネのお話しです。
◎彼らはペトロのような1番弟子ではないという引け目、劣等感があったかも知れません。 彼らは「わたしどもの一人をあなたの右に、 もう一人を左に座らせて下さい」との依頼をしたとあります。マタイ福音書では母親までが登場します(20:20)。 人間とは何と愚かな名誉欲にいつも囚われ続けている者なのでしょうか。 主イエスは「自分が何を願っているか、分かっていない。」と叱責されます。 私たちも正しい願いが分かっているでしょうか。 それが名誉欲からではなく、主イエスが「飲む杯」として受け止めることができる時、主イエスに従う道が完成します。
◎「主イエスが飲む杯」とは十字架の苦しみから贖罪としての十字架の死であります。 その上でもなお、その杯を私たちが飲む覚悟とは、すなわち主イエスの苦しみに与ることでもあります。 その結果、右と左に座ることができるかということは「定められた人々」にしか許されていないことだと言うのです。 それでは一体、誰が座れるのか?
◎主イエスの答えは「仕える者」となりなさいということです。 権力者はたくさんいます。 しかしどれほどの人が仕えているでしょうか。 人の子(=主イエス)の使命はすべての人に身代金としての自らの命を捧げることでした。



2018年3月25日

『 この杯を取りのけてください 』<<マルコ福音書14章32~42節>>

◎いよいよ受難週に入ります。 福音書の三分の一以上は最後の1週間の記事で占められています。 主イエスが十字架に向かって歩まれたそれぞれの日々を覚えて過ごしたいと願うものです。
◎ゲッセマネの祈りの場面、ここには苦悩する主イエスとその対極にいる弟子たちが描かれているように思えます。「ここを離れず、目を覚ましていなさい」(34節)と主イエスは言われて、ペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを伴われたとあります。この3人はこの受難節の間、主イエスにつき従いながら主イエスの思いを理解できないでいるダメ人間たちでもあります。 実際に主イエスの真剣な祈りにもかかわらず、「弟子たちは眠っていた」(37節)とあります。 肉体の弱さで片付けられない人間の罪深さが表されています。
◎主イエスの十字架の苦しみを真に受け止めることは人間には不可能かも知れません。 しかし主イエスの戦いは、そのような人間の弱さを代表して、父に祈られるのです。
「この杯をわたしから取りのけてください。」(36節) 神の子ですらそのように祈られている! 私たちには到底、堪えられる杯ではない。 しかし、主イエスは私たちがたった一人で信仰の戦いをしなさいと言っているワケではないのです。
◎「わたしと共に目を覚ましていなさい」(マタイ26:38) わたしたちの信仰の戦いには主イエスが伴っていて下さるのです。これが何と力強い励ましになることでしょうか。主イエスですらも「父の御心のままに」と祈られたのです。