2018年4月1日
「主は復活された。ここにおられない」<<マルコ福音書16章 1~ 8節>>
◎イースターのご挨拶は Happy Easter ! です。 丸一日、暗闇の世界に憩われた主イエスが光の中へ現れ出る。 その想いを私たちは共有したいと思います。 それは暗闇の中にいる私たちに真の光が届けられる瞬間でもあります。
◎当時の死者を葬る習慣では、遺体を亜麻布で巻いて、横穴式の小部屋のような石のベンチの上に安置しました。その入口には大きな石が置かれて動かないようにされます。 これは死を閉じ込める、ということです。
◎しかしながら、主イエスの死は閉じ込めておけなかったのです。 復活という希望に変えられたのです。 それは神のご計画でした。 にもかかわらず私たちは墓の中に未だ希望が残っているかのように探し求めているのです。 しかしそれは検討違いの方向や場所に希望を求めていることになります。 科学や哲学、エセ宗教を自分たちの救いのように勘違いして求めてしまっているのです。
◎しかし死というものに本当の意味で解決を与えてくれるのは死を克服した復活の宗教でなければなりません。死とは何も無い、生の否定ということです。 そこに人間の希望の根拠は一切ありません。
◎マタイでは主が婦人たちの行く手に立ちはだかり「おはよう」(28:9)と言われた、とあります。 ヘブル語ではシャローム(安心)です。 私たちは復活の主イエスから「安心して生きなさい」と招かれて生きることができるのです。
2018年4月8日
「信じない者ではなく、信じる者に」<<ヨハネ福音書20章18~29節>
◎敢えて前段落の18節から読みました。 「わたしは主を見ました」はマグダラのマリアの言葉です。 これは空の墓を目撃した弟子たちは先に帰ってしまい、彼女だけが復活の主を目撃することになり、弟子たちにも伝えるように主イエスに命じられた言葉です。
彼女は忠実な証人です。
◎復活の一日が終わろうとする夕方、復活の主イエスは弟子たちにも現れます。 奇妙なことに弟子たちはマリアの知らせを聞いた弟子たちは知らせに喜ぶよりも扉の鍵をかけて「ユダヤ人を恐れて」いたと言うのです。 弟子たちの人間的な恐れは、私たちにも共通しているものです。
◎そのような扉を閉じた弟子たちの中に主イエスは突然出現します。 私たちの閉ざされた心の扉など、難なく通り抜けてそして「あなたがたに平和があるように」と繰り返して言われます。 恐れと不安は人間につきものです。 それ以上に私たちは自分の心を閉ざしてしまう存在です。 そんな心を閉ざす私たちの中に入り、共に立って主は何度も平安を呼びかけておられる。 ただ受け入れるだけで良い。
◎しかし人間というのは疑い深い存在です。 トマスは私たちの代表と言っても良いでしょう。 彼は見たと言うだけでは信じることができない。 自分の手で触ってみないと決して信じない、と言います。 見る(視覚)だけでは満足できない。 それなら触る(触覚)なら確かなものなのでしょうか? トマスは触りなさいという主の言葉に、ただ、「わたしの主よ、神よ」と信じたのです。 これが信仰です。
2018年4月15日
「羊が豊かに命を受けるために」<<ヨハネ福音書10章7~18節>
◎ヨハネ福音書には「わたしは~~である」という定式で語られているテーマがたくさんあります。 「わたしは道、真理、命」(14:6)がその最も代表的なものですが、本日も二つ大切な命題が主イエスの口から提出されています。「わたしは(羊の)門」(7,9節)と「わたしは良い羊飼い」(11,14節)がそれです。いずれも二度ずつ強調されています。
◎「門」とはそこを通ることで内と外側が区別され隔てられます。 何と何を隔てるのでしょうか? それは、狼と呼ばれている存在から守るためです。 ここで言われる「狼」とは当時のユダヤ教(主にファリサイ派)の人々と考えられています。 ヨハネ福音書に描かれている教会共同体はユダヤの会堂から追放されて迫害を受けていたとされています。 彼らから羊を守らなければならなかったのです。
◎二つ目の命題の「羊飼い」はそのような教会共同体のために「命を捨てる」ほどの「羊飼い」です。 「良い羊飼い」の「良い」という意味は単なる性格や機能の快適さを表す形容詞ではありません。まさに「門」を通って中に入る「羊」たちのために命がけで戦う羊飼いなのです。 これは迫害の度を増す当時のユダヤ教団に対する覚悟を示しています。
◎それ以上に「命を捨てる」という語です。 これは当然のごとく十字架を暗示しています。 それに続く「命を再び受けるために」は復活を示します。 「捨てて」、「受け取る」。
それは何のためか? 「羊が命を豊かに受ける」(10節)。即ち、「信じる者が永遠の命を受ける」ことなのです(3:16)。
2018年4月22日
「新しい掟-愛し合うこと-」<<ヨハネ福音書13章31~35節>
◎本日の聖書の箇所は13章の冒頭の記事(いわゆる洗足木曜日の出来事)から、既に受難週に入っていることが分かります。 既にイスカリオテのユダの心には主を裏切るサタンの思いが入り込むだけでなく、弟子たちの中ではは誰が一番かという愚かな人間的序列争いがありました。
◎それに対して主イエスは「世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」(13:1)のです。 私たちの罪の愚かさにもかかわらず、ただ愛し抜かれるのが主イエスというお方です。この愛に応えて生きるのが私たちの使命なのですが、私たちはただ主の十字架の贖いの血潮によって赦されていることを知るのみです。
◎洗足の記事は主イエスが何よりも弟子たちの足下にきて、その汚れた部分、汚い足を洗う姿。 上から視線ではなく足下からの視線の生き方です。 これが「新しい掟」としての生き方です。 へりくだる生き方です。
◎三浦綾子氏『塩狩峠』には暴走する列車を自分の体をブレーキ替わりに身を投げ出した車掌の実話が出て来ます。 また、洞爺丸の遭難事故(1954年)では、自らの救命具を若い青年に差し出したストーン宣教師の実話が報告されています。 誰にでもできることではありません。 できないことを卑下する必要もありません。 ただ、そのことをなさせてくださった主の愛をあがめ、感謝して、祈る者とならせて頂きましょう。 ストーン師の遺産は農村伝道神学校(町田市)となって今も語り嗣がれています。
2018年4月29日
「ぶどうの木につながる<<ヨハネ福音書15章1~10節>
◎ヨハネ福音書に定番の「わたしは~~である」という宣言が今日も語られます。(直近では「わたしは(羊の)門である」(10:7)がありました。 本日は「ぶどうの木」です。 主イエスはこのように身近な動物や植物の存在を通して、神さまと人間の関係を説こうとしておられます。
◎本日の15章で気付くのは「つながって」という言葉です。 人間はつながらないと生きて行けません。 母親のへその緒から始まり、家族とつながって生き始めます。 創世記でアダムにはイブが与えられ、家族(社会)共同体の一員として生きて行くことが語られます。 アブラハムが召されたのもやがてイスラエルとなる共同体の祖となるためでした。 今や若者たちはネットでつながって生きてます。
◎ヨハネの教団には二つの敵(迫害者)が居たとされています。 一つはユダヤ人、もう一つはローマ帝国でした。 後者は激しい迫害で教会を痛めつけました。 しかし、教会はそのような試練をどのようにして生き延びたのでしょう。
◎それは言うまでもなく「つながって」生きて行くことでした。 ぶどうの幹と枝の関係を神さまと人間、ひいては教会と教会員との関係でもあります。 つながることによって、しかも最強の幹とつながることによって初代教会は迫害を生き延びることができたのです。 それは初代教会のみならず、歴史の中で教会が絶えることなく生き延びて来る事ができたのは命の源泉であるぶどうの木、その根幹である主イエスにつながったからです。
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