2018年6月3日
「大胆に生きるために」<<使徒言行録 4章 13~31節>>
◎「無学な普通の人」に過ぎない漁師のペトロとヨハネの大胆な態度はどこから来るのでしょうか?このたった二人の前に議員、長老、律法学者たち、さらには大祭司一族が威嚇するように立ちふさがっているのです(5~6節)。「そのとき、ペトロは聖霊に満たされて言った」(8節)とあります。
◎私たちは恐れおののく時、何に助けを求めますか?多数の人でしょうか、それとも権力でしょうか。お金や地位に寄りすがる人も居るでしょう。 しかし、ペトロはただ上からの力=聖霊に満たされただけなのです。 少年ダビデが巨人ゴリアテに向き合った時、ただ主の守りを信じていただけでした。 ヨナタンは「主が勝利を得られるために、兵の数の多少は問題ではない。」(Ⅰサムエル14:6)とわずかの手兵を率いて強大なペリシテ軍に挑みました。
◎私たちは信仰を持っているとは言っても、必要以上の恐れを抱いてはいませんか。その時、聖霊の力を期待しているでしょうか。むしろ妨げてはいませんか?聖霊の力を侮ってはいませんか?ペトロとヨハネの大胆な態度は宗教的権威を持つ人、この世の権威を持つ議員を驚かせ、逆におののかせました。 そこに聖霊の力があったからです。 ◎聖霊と聖霊によって起こされた経験は、次に人々を一致の霊へと導きます(24節)。 大祭司たちの前である必要はありません。 あなたの信仰がさらに大胆な祈りへと導き、教会の力を大きくします。 それはさらに「大胆に神の言葉を語り」だすことにつながって行くのです。
2018年6月10日
「イエス・キリストの名によって」<<使徒言行録 16章16~24節>>
◎「聖霊降臨節(教会節)」は教会の成長、発展を記す『使徒言行録』に頻繁にに目を通します。 そこには順調に教会が成長した等とは書かれていません。
多くの戦いがあって、そして何よりも聖霊の助けがあった故にこそ教会は守られ成長したのです。 人間の力の故ではないのです。
◎今日の聖書では二つのことが語られています。一つは、占いの霊(この世の悪霊、偶像礼拝)に憑かれてしまった人との戦いと、それらがもたらすパウロたち(教会と言って良い)への迫害です。その迫害は讃美を通して奇跡的な解放という結果をもたらしますがこれも聖霊の働きです。
◎ここで興味深いことがあります。それはこのような占いの霊の奴隷も、真の神を見分ける目を持っていることです。 なぜなら、これらの占いの霊(悪霊)も真の神を恐れているからです。ですから私たちは見えない力(霊)に恐れ惑わされる必要は全くないのです。 キリストの名によって祈るとき、聖霊が私たちに替わって戦って下さるのです。
◎私たちはどれほど霊の奴隷となってそれらに束縛されているのでしょうか。利己主義、お金儲けに目がくらんでいる事等々の思いから、またなかなか直せない悪弊や中毒、権力欲や見栄も同じです。 今こそ主イエスの名で祈ることによって、またその名で戦うことで、聖霊の力を呼び込みましょう。 「自由を得させるためにキリストはわたしたちを解放してくださった。だから堅くたって、二度と奴隷のくびきにつながれてはなりません」(ガラテヤ5:1)
2018年6月17日
「前もって決めておかれた仕事」<<使徒言行録 13章 1~12節>>
◎使徒言行録には教会が向き合わねばならない迫害との戦いが記されています。
ヘロデは教会の主だった人たちを迫害することに熱意を燃やしています。 捕ら
われたペトロは主の不思議な力で解放され、ヘロデは神の審きに打たれて惨めな
死を遂げます(前12章のあらまし)。
◎このような迫害の中にもかかわらず、宣教は人間の手で進められるとは言え、
徹頭徹尾神さまの上からの働きとして記述されます。 バルナバとサウロがその
ような中で、キプロスへの宣教に召し出されます。 ルカは彼らの召命について
「わたしが前もって二人に決めておいた仕事に当たらせるため」(13:2)とします。
人間の召命の不思議さは語り尽くすことなどとても出来ません。 「前もって」
とはどんな人間の緻密な計画をも越えるものである事を示します。
◎そのような聖なる神の計画を自らの内に現させるのは何でしょうか? 「彼ら
が主を礼拝し、断食していると」(2節)とあります。 礼拝と断食、この二つが
主の計画を自らの内に引き込んで来るのです。 礼拝がまず先立っています。 断
食とは自らを空っぽにする象徴的な行為です。
◎次に宣教へと送り出すのは教会的なワザです。 「彼らは」(3節)は複数形で
す。 宣教は個人的プレーではありません。「断食して祈り、二人の上に手を置
いて出発させた」とあるように教会が聖霊の力の下で進めて行く時にのみ、神さ
まの力によって起こされる出来事なのです。 使徒言行録はその意味で「聖霊行
伝」とも呼ばれるに相応しいのです。
2018年6月24日
「促しに応えて」<<使徒言行録 13章13~25節>>
◎サウロがダマスコで復活の主と出逢った(使徒9章)のは主イエスの十字架刑
後ほどなくしてと考えられます。その後、バルナバがサウロをタルソスで探し出
して、連れ帰る(11:25~26)まで約十年の歳月が経っていたとされます。
◎本日の箇所の冒頭からサウロはパウロと替わります。名前の変更はユダヤ人
向けのサウロと異邦人向けのパウロとの使い分けですが、サウロは上記の十年に
よって根本的な変革を遂げ、使徒言行録の主人公となったのです。
◎パウロが最初に直面した苦労は何だったか?それは親しく援助を受けていた
仲間~ヨハネ(マルコ)~との仲間割れでした。 教会のあつい祈りに支えられて
始まったにもかかわらず、理由は不明ですがヨハネが離れて行ってしまいます。
しかし神さまの宣教のワザは妨げられません。
◎第一次伝道旅行とされている少人数の旅ですが、この旅行は三百年後にあの
ローマ世界をキリスト教世界へと変えてしまうほど大きなインパクトをもたらし
ます。 神さまのワザを侮ってはなりません。 宣教は人間がなすワザですが、結
果は神さまがもたらされます。 パウロは特別なことをしたのではありません。
安息日に諸会堂に入って語るのです。 促されるままに語ります。
◎そこで語られることは、イスラエルの救いの歴史です。このような説教はス
テファノの説教(7章)でも見られるものです。 絶えず原点に戻りつつ、主イエス
の救いを指し示すのです。 これは今の教会の役割でもあるのです。
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