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阪南キリスト教会 / hannan christ church 



                   本日の説教より 

2018年9月2日
「 キリストの恵みに身を浸しきる」<<ガラテヤ1章1~10節>>

 ◎当時の書簡の形式(差出人、宛先等)で書き始められていますが、その中でパ ウロは大切なことを主張します。 それは先ず、自分の使徒職の権威は、「キリ ストを死者の中から復活させた父である神」から来ると冒頭で述べます。 これ はパウロの権威に難癖をつける人たちが居たからです。 それ故、パウロは自ら
が使徒職として選任された経緯について(11節~2章)異例に長く言及せざるを得 ません。
 ◎パウロの反対者たちは割礼を始めとした律法を遵守することを強調するユダ ヤ人キリスト者だったと考えられます。 彼らはキリストの十字架の死は私たち の救いにとっては不十分であり、それに加えて律法(の諸規定)によって補完され る必要があると考えていたのです。 パウロはそれを「ほかの福音」「もう一つ 別の福音」と攻撃します。
 ◎律法を遵守することで私たちが救われるのだとすれば「キリストの死」は贖 いでもなく、単なる無駄死にでしかなかったことになります。 パウロはもう一 度確認しようとします。 「わたしたちを救い出そうとして、御自身をわたした ちの罪のために献げてくださった」(4節)のです。 これを「贖罪」と呼びます。  我々はこの御方の存在で救われています。
 ◎現代はどうでしょうか? キリストの死どころか、私たちを一時的に満足させるモノで満ちあふれていま
す。 金銭的享楽は言うに及ばず、地位や名誉、さら
には仕事、家庭すらも癒やしという名の救いに替えられていませんか?キリスト の死こそ究極の救いであると告白しましょう。



 2018年9月9日
「 惜しまずに豊かに施しなさい」<<Ⅱコリント9章6~15節>>

 ◎先週の当地での台風被害、また北海道での地震の被災者のことに思いを馳せ る時、本日の聖書の箇所はまさに私たち一人びとりに語りかけられていると思わ ざるを得ません。 私たちも大なり小なり被災者の一人とするならば、どのよう にして頂くのが喜ばしいか、そして神の御心とは何かを考えながら読み進めなけ ればなりません。
 ◎エルサレム教会は飢饉のため酷い窮乏状態に陥っていたと考えられます。 パ ウロはこの惨状にいたたまれずに、募金を訴えて回ります。 これに応じたアン ティオキアの教会の兄姉らが献金物資を贈ることを決め、バルナバとサウロに託 します(以上、使徒言行録11章以下、特に27~29)
 ◎パウロは自らの使徒性がなかなか認められない中で、この募金活動を通して、 エルサレム教会の困窮に応える愛の業としては当然のこと、ユダヤ人教会と異邦 人教会の一致が現されている重要な形でした(8:14~15)。 そして事実、(歴史的 にも)そのようになって行きました。 パウロは異邦人教会がそのように献げるこ とを通して祝福され、成長して行く姿を心から喜びつつ(8:16~)、今またエルサ レムの兄弟姉妹のために訴えます(9章以下)。
 ◎そしてこの奉仕の業を通して、ますます主の祝福をもたらすばかりではなく、 惜しみなく(強いられてではなく)施す人たちの心を主は「あらゆる恵み」で満ち あふれさせて下さるのです。 それはもともと、私たちの賜物は貧しい人々に用 いるために神から託されているものだからです。



2018年9月16日
「 人間にはただ一度死ぬことと、そして」<<ヘブライ書9章23~28節>>

 ◎本日の箇所は非常に難解に思えます。 これは当時のユダヤ教の宗教儀式(旧 約聖書のレビ記16章に基づく)が背景にありますのでその理解が必要です。 ユ ダヤ教では罪が贖われるためには、動物(雄山羊や雄牛)を犠牲として献げて、大 祭司が1年に一度だけ聖所に入ってその動物の血を注ぎかけることで達成される と規定されており、この日を「大贖罪日」と呼んで重要視されて来ました。
 ◎これは毎年、永遠に繰り返されます。 今に至るも、です。ということはその 儀式は一時的なものに過ぎないと言うことになります。しかし、人間は永遠に生 きるワケではありません。 いったいいつになったら自分の罪の赦しを確認でき るのでしょうか? それは人間の大祭司(移り行きます)によってではなく変わら ない永遠の大祭司、すなわち主キリストによってのみ可能になるのです。
 ◎「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まってい る」(27節)とあります。 「死ぬ」ことは当然のこととして受け止めてはいても、 人間はその現実から避けようとしつつ、その後の「裁き」は考えません。 誰も 経験なしでは語れないからです。 ただキリストだけは例外です。
 ◎キリストは十字架でたった一度限りの贖いの業を成し遂げられたあと、復活 という希望を示して下さいました。すなわち私たちはキリスト(の贖い)というナ ビゲーターを通して、「死から命へ移って行く」(ヨハネ5:24)ことを知れば、永 遠の命に至る信仰によって生きることができます。



2018年9月23日
「 キリストの苦しみの欠けを満たす」<<コロサイ書1章21~29節>>

 ◎人間本来の姿である過去の自分(神に敵対=罪)と福音のもたらす現在 (十字架 の贖いによる神との和解)、そして未来(福音の希望)の視点から、パウロの与え られた使命(伝道・宣教)について述べられます。 これらはすべて、キリストの 体なる教会のワザとしてなされねばなりません。
 ◎そこでパウロは福音に「仕える者とされました」(23節)と語ります。 それは 自らの意志によってではありません。神の選びによるからです。 パウロのキリ スト者とその教会の迫害者としての過去が、より一層の教会への愛と伝道への熱 意へと昇華したのは疑うことはできないでしょう。
 ◎しかしパウロは不思議な表現をします。「キリストの苦しみの欠けたところ を身をもって満たしています」(24節)と。 キリストの苦しみを十字架の(贖罪) 死と受け取るならば、キリストの贖いが不完全であったことになります。 そん なことがあり得て良いのでしょうか?そうではありません。
 ◎ここでの<苦しみの欠けたところ>とはむしろ弱小のコロサイの教会、ひいて は全世界への伝道・教化のためにまだまだ堪え忍んで担って行かねばならない苦 しみ・戦いが残っているという意味での<苦しみの欠けたところ>と理解するべき でしょうし、そうしなければなりません。 それほどの苦労を前提とするところ
の福音宣教のワザなのです。そして、それは「秘められた計画」であったけれど も、私たちに啓示され、福音宣教の働きを通して「栄光の希望」(27節)へと変えられて行く恵みに私たちも与るのです。



2018年9月30日
「 主よ、どうして怒りを燃やされるのか」<<出エジプト32章7~14節>>


 ◎モーセによって神とイスラエルとの間で締結された契約(シナイ契約と呼ばれます→出エ19章~31章)が、どのように正しく継承されて行くのか? 今、これが問われています。 当然のことですが、契約は結ばれたらおしまいではないのです。 双方が遵守する義務を負います。
 ◎しかし、神が契約を破ることはあり得ません。 モーセが四十日四十夜にわたって神さまと対峙していた時、山の麓では何が起きていたのか? 民らは「さあ、我々に先立って進む神々を造ってください」(1節)と不平不満を言います。私たち人間の罪深い本性が現されて来るのです。 自分たちの思い通りにならない時に、思い通りになる「神々」を生み出したのが「金の子牛」事件です。 これが偶像崇拝です。「作るな(第二戒)」と命じられたにも関わらずです。
 ◎神はモーセに下山を命じます。 神がモーセに伝えたのは神ご自身の嘆きであり、それでは収まらずに審判の言葉(9~10節)にすらも言及して警告なされます。 神の言葉は変えられることはあり得ないのが通常です。 それほど、厳格なものの筈ですが、慈愛の神であることも事実です。
 ◎しかし、ここでモーセが神と罪深い民の前に立ちはだかります。 執り成しです。 滅ぼされるべき人類にとって、歴史的かつ最大級の執り成しと呼んでも良いでしょう。モーセの訴えの根拠は何だったか?それはアブラハムと結んだ契約です。 一方的な恵みの契約でした。 神はその契約を独り子をこの世に送る形で結び直されたのです。