2018年12月2日
「神の民への希望と慰め」<< エレミヤ書33章1~16節 >>
◎アドヴェントに入りました。 アドヴェント(Advent)とはラテン語の到来とい
う単語に由来します。 ここで考えねばならないのは「何が」あるいは「誰が」
やって来るのかということです。 もちろん、私たちは二千年前の主イエスの到
来の事実を知っています。 そして再び到来する主イエスを待ち望む者でなけれ
ばなりません。
◎前6世紀の初め、南ユダ王国はバビロニアのネブカドネザル軍に包囲されて、
その命運は風前の灯火となっていました。 エレミヤは「ユダ王国は滅びる」と
はっきり預言しました(事実、歴史上はそうなりました)。 その結果、彼は迫害
を受け、数度に渡り監禁され発言を封じられます。
◎人々が絶望し、偽預言者の根拠の無い回復預言に耳目を奪われている時に、
エレミヤは獄中からひたすら「希望」を語り続けます。 「ユダとイスラエルの
繁栄を回復し、彼らを初めのときのように建て直す。」(7節)がそれです。 それ
はどのようにして可能となるのでしょうか?これまでは律法の遵守→無視、これ
を繰り返して裁きを招いていました。
◎しかし今や、新しい契約(「新約」の語源→31章31~34節)が与えられようと
しています。 それは律法を遵守することによるご褒美として与えられるのでは
ありません。 一人の義の仲介者によって一方的に与えられるのです。 「正義の
若枝」(15節)がそれです。 当時の人々はそれが誰であるか分かっていませんで
した。 しかし私たちはそれがやがて来たり賜う主であることを知っています。
2018年12月9日
「すべての者は無条件で来なさい」<< イザヤ書55章1~13節 >>
◎前6世紀の前半、バビロンに捕囚となった民は「渇きを覚えている者」、
「銀を持たない者」(1節)、すなわち彼らの困難さ、絶望的な状況が想像されま
す。 捕囚の民は経済的にどん底にあるのです。 これは歴史の審判であると良心
的な人々(特に預言者)は考えました。すなわち人間が貪欲、強欲になり真の神
さまを忘れた結果であるーーと。
◎それにも関わらず神さまはそのような絶望の中に陥っている国、民を招かれ
る。そして、必要をすべて与えられる。しかも「価を払うことなく」必要を与え、
満たしてくださるのです。 そのための代価は一切必要としない。 要するに「た
だで!」なのです。 これを恵みと呼びます。
◎どんな絶望(罪)の中にある人間でも全く無償の愛によって救われる。これは
主イエスの十字架の愛を究極的に予知しています。そしてその条件とは何かと言
うと→「わたしに聞き従えば」(2節)です。 すなわち神に聞き従うだけで良い
というのです。 「信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉
から来る」(ロマ10:17)とある通りです。
◎「聞け」(シェマー)とは、単に耳を傾けること以上に、人格をもって応答を
することを要求します。 それは「わたしたちの神に立ち帰る」(7節)ことです。
神に背を向けて生きて来た過去を振り返り、厳しく反省する。 それはもちろん
ですが、そのような私たちを赦し手を広げて待ち構えていてくださる神さまに安
んじて身を委ねましょう。 そこに入るには何の条件も必要とされていないからです。
2018年12月16日
「先立つ人~ヨハネとその両親」<< ルカ福音書1章5~25節 >>
◎バプテスマのヨハネはドラマで言うならば脇役に過ぎません。 主人公を引き
立たせる役割です。 脇役が自己主張を始めて目立ってしまうと主役が死んでし
まいます。ヨハネは主イエスの先駆者として主イエスのお手本になったのでもあ
りません。 では何故、ヨハネの存在に注目してその誕生から語られる必要があ
るのでしょうか?
◎ヨハネ自身が自らを「わたしはその履物のひもを解く資格もない」(ヨハネ1:
27)と主イエスの前にへりくだっています。 彼ほど自分の役割に徹している人物
も居ないと言えます。彼の役割は徹頭徹尾、主イエスを指さしその道備えをする
ことでした。 人間は自らを指さそうとします。 しかしそれは愚かな事です。
◎祭司としては申し分の無い家系に属するザカリヤ、そしてその妻エリサベト
も名門の出です。 「二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、
非のうちどころがなかった。」(6節)はこの夫婦について最高の紹介をしますが、
ただ一点、「彼らには、子供がなく、二人とも既に年をとっていた」(7節)と最
高の中にも希望の欠如が語られています。
◎どんな人間の努力も報われない時がある。 この老夫婦のように。しかし彼ら
のような希望のないところに希望のともしびが灯される。 ザカリアは礼拝(神に
仕える)でその身を献げていました。 そこに天使が訪れます。かつてアブラハム
に訪れた天使のように一方的にです。 礼拝を守り続ける民を神は必ず顧みてく
ださるのです。
2018年12月23日
「飼い葉桶で起きた事件」<< ルカ福音書2章1~7節 >>
◎きらびやかなイルミネーションが街を彩るこの季節になるとかえって孤独感
を募らせる人たちが多くいると言われます。 特に一人住まいの方々、寄り添う
人がそばに居ない方々、入院中の方々、主はそのような方々の所にイエスを遣わ
された。これがクリスマスのメッセージです。
◎ローマ帝国の支配者、皇帝アウグストゥスの命令は絶対です。 ヨセフは臨月
を迎えようとする身重の妻マリアとガリラヤのナザレで暮らして居ました。 ユ
ダヤのベツレヘムへの移動命令には困り果てたことでしょう。 直線距離で約
80kmです。 ヨセフは妻をいたわりながら徒歩の旅を強いられます。 普通の人の
倍近くの時間をかけてやっとナザレに到着したと思ったら、困ったことに遭遇し
てしまいます。 「宿屋には彼らの泊まる場所がなかった」(7節)からです。 何
と冷たい響きを持った言葉でしょう。
◎宿の主人も客人も彼ら夫婦には冷たく振る舞います。しかしこれが私たちの
世界の現実なのです。 小さく弱く貧しい者たちの居場所がなくてはじき飛ばさ
れて行く。私たちは宿屋の中で外に押し出されている人に無関心でいないでしょ
うか?
◎主イエスはそのような外に押し出されている人々のところ(飼い葉桶)にお生
まれになられた。 これは事件です。それはこの人たちと共に生きて行こうとす
る決意の表明でもあります。 私たちはこの小さき赤児イエスを心に受け入れる
備えをしなければなりません。
2018年12月30日
「最も良いものを捧げよう」<<マタイ2章1~12節>>
◎1月6日の公現日(エピファニー)までを教会の暦では降誕節としてクリスマ
スのお祝いを続けます。 クリスマスが祝われるようになる4世紀のキリスト教
が公認されるまで、教会は異教の風習(皇帝崇拝、太陽神礼拝等)との戦いがあっ
たのです。 この年末最後の礼拝を、その恵みを数えながらクリスマスのひと時
を過ごしたいと思います。
◎「学者たちはその星を見て喜びにあふれた」(10節)とあります。 クリスマス
後の最も定番の聖書箇所です。 異邦人ですらも主イエスを拝みに遠路、やって
来るというこの記事は真の救い主に出逢うことで異教に勝利したことを指し示す
ものと、教会では受け止められて来ました。
◎さて学者たちはその星を見てまず喜びにあふれます。 そして躊躇なくその星
に導かれ、その星を探しに出かけます。旅をする事が全く当たり前ではなかった
時代に、彼らは主イエスに出逢うために、危険をも顧みずに時間と体力、そして
彼らにとっては最も高価な贈り物、すなわち持てる財力をすべて携えて、主イエ
スに捧げるために出発します。だからこそ主イエスに出逢う喜びは大きいのです。
◎カトリック教会は16世紀に、またプロテスタント教会は19世紀初頭に東
方の星に導かれてアジア(主にインド、中国)に宣教師が出かけて行きます。 開
国間もない日本には1859年にヘボン師、ブラウン師らがやって来ます。彼らは自
らの人生という尊いささげ物を携えて、その
生涯を日本に捧げたのです。その事を心に刻みましょう!
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