2019年1月1日
「主が恵みをお与えになる!」<<イザヤ書61章1~11節 >>
◎新年の決意(=元旦の計)を英語では、"New Year's Resolution"といいます。
Resolutionが「決断」なのですが、元々の意味は「解決」です。 新しい解決を
新年に始動させる意義は旧来の解決が役に立っていないからです。 単なる願い
ごとをするだけで終わる新年であってはならないといえます。
◎前6世紀後半、捕囚の地バビロンで生活を送っていた民は、故郷から引きは
がされてやがて50年以上が経とうとしていました。 言葉も文化も宗教も違う
地での暮らしは人々に何をもたらしたか? あきらめです。 もうこのままで良い
じゃないか、敢えてしんどい目をして故郷に帰らなくても構わないじゃないかと。
しかしあきらめは何ものをも生み出しません。新しい解決が必要なのです。 そ
れは神さまから一方的に解放の約束としてやって来ました。
◎「主が恵みをお与えになる年」(2節)とは何でしょうか?それは捕囚からの解
放を意味します。 「あきらめ」からの解放も意味します。 しかしそれは新たな
困難を生み出します。 故郷エルサレムに向けての旅は途方もない時間と財と体
力(忍耐)を必要とします。 年老いた人たち、病人、幼児はどうするのか?
◎それに加えて帰還して行く所にあるのは、実は「廃虚の町々」(4節)なのです。
そして自分たちの権利も主張できない貧しい生活を強いられます。そんな所に戻って行って一体何になるのか? ここで不思議な形で助けがやって来ます。
「他国の人々が立ってあなたたちのために」(5節)と言うのです。 すべては神さ
まのご計画です。 だから「恵みをお与えになる年」なのです。 一方的にしかも、
彼らに「恵みの晴れ着をまとわせてくださる」(10節)のです。
2019年1月13日
「深みに漕ぎ出し、網を下ろせ」<<ルカ福音書5章1~11節>>
◎ルカ福音書のペトロ召命物語はマルコ・マタイ福音書よりもずっと詳細で具
体的です。 これはルカが直接、ペトロや他の弟子たちと生活を共にしていたか
らでしょう。
◎ペトロは夜通しの労苦が報われずに網を洗っています。 そこに主は現れペト
ロの舟を利用して人々に教えを語ります。 主の横顔を見つつ教えを聴いていた
ペトロに主は突然「深みに漕ぎ出し、網を降ろせ」と命じられます。ペトロはつ
ぶやきます。 「夜通し苦労したんですよ」と。 でも主の教えを聴いたペトロは
「しかし、お言葉ですから」と、あえてそのチャレンジを受け止めます。
◎すると結果はどうだったでしょう。 想像もできない豊漁となったのです。
ペトロはその事でぬか喜びしたでしょうか?そうではありません。 彼は「イエ
スの足下にひれ伏して・・・わたしは罪深い者なのです」(8節)と悔い改めたの
です。 何故でしょうか?「お言葉ですから」という言葉の中には主イエスの言
葉が本物かどうなのか、またその評判が確かなものなのか、それを試そうとする
思いがあったのでしょう。 それはある意味、絶対的信頼ではない不信仰とも言
えるものであって、それを問われたと言えるでしょう。
◎悔い改めたペトロに対して主は穏やかに語られました。「あなたは人間をと
る漁師になる」と。 主への絶対的信頼に目覚めたペトロにもはや迷いはありま
せん。 仲間のヤコブとヨハネも同様でした。 彼らは献身します。 それは全生涯をかけて主に従って行く信仰を意味したのです。
2019年1月20日
「この言葉は今日、成就した」<<ルカ福音書 4章16~30節>>
◎弟子を招かれる前のこと、荒野で誘惑を受けてガリラヤで主イエスは伝道を
始められますが、その評判はすぐに周辺一帯に広まって行ったことが知られます。
しかし故郷のナザレでは果たしてどうだったでしょうか?
◎主イエスは「いつもの通り」に行動されます。 即ち会堂に入って人々に聖書
の教えを教えられるのです。 特別なこと、新奇なことをされるのではありませ
ん。 もう聞き飽きたとか、あそこには何度も行ったからもう十分だと言うので
もありません。 「いつもの通りに」教会で礼拝を守り続けるということがいか
に大切かということが学べます。
◎さて渡された聖書(旧約)を読み始められました。 ここはイザヤ書61章の言
葉です。 「主の霊がわたしの上におられる・・・」 何と言う大胆な言葉でしょ
うか。 主イエスは聖書のお言葉を自分にあてはめて宣言なさいました。 「この
聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と。
するとイエスの成長を見つつ普段の行状を知っている故郷の人々の驚きは称賛と
言うよりも嘲笑へ、そしてやがてそれは憤慨へと変わって行きます。
◎貧困や暴力等、経済的格差が蔓延し富める者、傲慢な者が貧しい人々を虐げ
ることに何の痛みも感じないような社会にあって、エリヤの時代にサレプタの寡
婦にだけ遣わされたこと、エリシャの時代にナアマン将軍だけが癒やされたこと
に言及し、ただへりくだって主を信じる者のみが救われることを強調したのです。
2019年1月27日
「私の霊があなたがたの内に宿っている」<< ハガイ書 2章1~9節 >>
◎遠くバビロンの捕囚からエルサレムへと戻ることを許されたイスラエルの民
たちはその喜びもつかの間、経済的困窮と民族の内部抗争に直面していました。
破壊された神殿を再建する使命など忘れ去られてしまったかの感がありました。
そのような時に召された預言者ハガイはあえて神殿再建を通して、イスラエルの
復興を叫びます。
◎神の民として召されたイスラエルの使命とは何か?それは神殿を中心とした
神の民として生き直すために他なりません。 それに応えようとする人々も居ま
したが、多くの人たちはそのようなお金と時間のかかる神殿建築などは時期尚早
として反対・無視する人々も多く居たのです(2:2)。 しかしそれらの人々は自分
の事にしか関心がなく神殿再建など非現実的だと言い訳するばかりです。
◎前520年とされています。 主は二人の人物(ゼルバベルとヨシュア)をリー
ダーとして立てます。 自らの生活再建もままならない中で、かつての栄耀栄華
を誇ったソロモン王の神殿と同等のものを作る事など不可能でした。特に以前の
神殿を知っている高齢の帰還者の目から見れば、その建物は余りにも貧弱だった
と思われます。
◎主はそのような目に見えるものに落胆するのではなく、「わたしはお前たち
と共にいる」(4~5節)という主の臨在の約束へと人々の目を向けさせます。 「昔
の神殿にまさる」(9節)のは、まさに人々がそこでどれだけ真摯に信仰生活を送
るかにかかっています。 教会も目指すは同じ目標です。
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