2019年2月3日
「新しい革袋に!」<< ルカ福音書 5章33~39節 >>
◎断食という古い習慣があります。 彼らは律法に従って年に一度(レビ16:29)、
あるいはその律法以上に週二日も断食していた(ルカ18:12)とされます。 それが
ファリサイ派の人々の義の象徴であり、そうすることで大きな報いがあると考え
ていたのです。 ですから、主イエスに従う者たちが断食しないで飲み食いばか
りしていることを非難したくなったのも無理のないことでした。
◎主イエスは先ず最初に婚宴の例えを語られます。 「花婿が奪い取られる時が
来る」(35節)はご自身の十字架の死を暗示したと考えられます。 断食はもはや
古い義務でしかなく新しい時代が来る。 その時こそが正しい断食の時であり、
花婿(主イエス)が居る今は普通に飲み食いをして福音を分かち合い喜び合えば良
いのです。
◎二つ目の例えは古いつぎあての例えです。 主イエスは日常的な例えを通して
新しいモノと古いモノの差異を明るみに出します。 「新しい服から布切れを破
り取って、古い服に継ぎを当て」るのは愚かさの極みです。 普通は逆をするで
しょう。 しかし私たちは伝統という古さにしがみついて新しさを台無しにして
しまっていないでしょうか?
◎三つ目のぶどう酒の例えでも同じことが言われます。 しかしぶどう酒は古い
モノほど良いのです。 そこには変わらない真理があるからです。 それを破棄し
ろと言っているのではありません。 新しい福音は悔い改めた新しい者たち(革
袋)によって担われなければならないのです。
2019年2月10日
「安息日の主とは?」<< ルカ6章1~11節 >>
◎ユダヤ社会では、当時、当然視されていた規則(=律法)を守らない事は厳しく 断罪されました。 特に安息日の規定は出エジプト記の十戒(20:8,10等)と共に厳 罰の対象でした(同、31:14)。 これまで守勢に立たされていた律法学者たちやフ ァリサイ派の人々は、この規定にイエスや弟子たちが違反しないかに目を光らせ ていたことでしょう。
◎一つ目の出来事は空腹の弟子たちが麦の穂を摘んで食べるというものでした。 しかしこれは律法で許されている行為でもありました(申23:26)。 ここでは規 則が人間を活かす形になっていないし、人間が規則を作ったにもかかわらず、人 間が規則のためにあるかのごとき彼らの主張を主イエスは厳しく批判されるので す。 「人の子は安息日の主である。」とは主イエスに対して言われているので す。
◎二つ目の出来事は安息日の癒やしです。 何(どういう行為)が律法違反なのか は何千もの細かい規定がありますが、病気治療については比較的はっきりとして いました。命にかかわる問題でなければ安息日以降にすれば良いからです。 で すから、わざわざ安息日に癒やしを行う必要はなかったにもかかわらず、あえて 安息日に癒やしをなさいます。 ここでも主イエスは「新しい革袋」(前段)を示 されたのです。 身体に障がいを抱えた人物が1日でも早く社会に復帰すること
は善行であり愛の業でもあります。 ファリサイ派の人々にはその愛がなく、律 法に拠って裁くことばかりを考えていました。 愛は律法に勝るのです。
2019年2月10日
「安息日の主とは?」<< ルカ6章1~11節 >>
◎ユダヤ社会では、当時、当然視されていた規則(=律法)を守らない事は厳しく
断罪されました。 特に安息日の規定は出エジプト記の十戒(20:8,10等)と共に厳
罰の対象でした(同、31:14)。 これまで守勢に立たされていた律法学者たちやフ
ァリサイ派の人々は、この規定にイエスや弟子たちが違反しないかに目を光らせ
ていたことでしょう。
◎一つ目の出来事は空腹の弟子たちが麦の穂を摘んで食べるというものでした。
しかしこれは律法で許されている行為でもありました(申23:26)。 ここでは規
則が人間を活かす形になっていないし、人間が規則を作ったにもかかわらず、人
間が規則のためにあるかのごとき彼らの主張を主イエスは厳しく批判されるので
す。 「人の子は安息日の主である。」とは主イエスに対して言われているので
す。
◎二つ目の出来事は安息日の癒やしです。 何(どういう行為)が律法違反なのか
は何千もの細かい規定がありますが、病気治療については比較的はっきりとして
いました。命にかかわる問題でなければ安息日以降にすれば良いからです。 で
すから、わざわざ安息日に癒やしを行う必要はなかったにもかかわらず、あえて
安息日に癒やしをなさいます。 ここでも主イエスは「新しい革袋」(前段)を示
されたのです。 身体に障がいを抱えた人物が1日でも早く社会に復帰すること
は善行であり愛の業でもあります。 ファリサイ派の人々にはその愛がなく、律法に拠って裁くことばかりを考えていました。 愛は律法に勝るのです。
2019年2月17日
「神の国の栽培方法」<< ルカ福音書8章4~15節 >>
◎身近にあってとても分かり易い例え話を主イエスは私たちになさいます。 ど
の福音書にもこの例えは言及され、しかもその意味が説明されているのも共通し
ていて、ここでは「種」は神さまの言葉、土地は人間(の心)とされます。
◎「道端に落ちた種」とは「御言葉を聞くが、・・・・後から悪魔が来て」と
あります。 悪魔はあらゆる角度から私たちを信仰から遠ざけようとします。 神
に目を向けさせない力です。それは私たちの周囲にたくさん存在します。 自分
の力を過信したり、この世的な権力、お金を第一にして、せっかく耳にした神さ
まの言葉を無にしてしまいがちとなります。
◎同様のことは「石地の上に落ちた種」にも「茨の中に落ちた種」にも共通し
ていえます。 どれも一時的な感動で終わるのです。 御言葉によって生かされ成
長するという体験がなく、すべてを他人や周囲(環境)のせいにして終わってしま
う人たちです。 自分の問題に向き合おうとしないのです。 確かに環境にも原因
があるでしょう。 しかし御言葉の力に満たされた人は、誘惑を押しのけます。
◎「良い土地に落ちた種」とは人間的に優秀な資質というのではありません。
もしそうなら恵まれた裕福な環境に置かれた人がそうだということになります。
むしろ御言葉を吸い込む率直さや柔軟さが問われているのでしょう。
最後に「種」(=御言葉)とは小さなものです。 しかし、神の力によって大きく成
長します。 小さな私たち、小さな教会、すべて主によって成長して行くことを
信じましょう!
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