2019年3月10日
「自分でしたのですか?」<< 申命記 6章10~19節 >>
◎先週6日(水)は「灰の水曜日(Ash Wednesday)」と呼ばれ受難節(レント)が始まりました。「灰」とは旧約聖書では「悔い改め」を象徴します。 四十日間(Lent)の克己の日々のあと、主の十字架を経て復活を待ち望むのです。 ◎「申命記」という書名は中国語から来ていますが、「重ねて命じる」という意味です。 何故そうするのか? それは私たち人間がそれほど忘れ易い存在だからです。 神さまの教え(律法=5章「十戒」)が与えられ、それが何度も繰り返されます。 私たちも含めて神の民としていかに生きるべきかを御言葉を繰り返すことで心に刻むのです。 ◎その中心が「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」(5節)です。 言うまでもなくこの聖句は主イエスに引用されたため旧約聖書中でも最も有名な聖句となりました。
主イエスはこれが最も重 要だと言いつつ、第二も同様に重要だと語って次のように続けました。『隣人を自分のように愛しなさい。』 (マタイ22:39)神を愛することと人を愛することは切り離せないのです。 ◎「自ら~~したのではない」という語が四度も繰り返され強調されています。 決して自分の力によるのではない事、すなわちすべては主から与えられたものである事。 あたかも私たちは自らの手柄を誇ろうとしているとするならば、それは正しいことか?と鋭く問われているのです。信仰は神さまが私になされた恵みのわざを感謝を以て受け止めることから始まるのです。
2019年3月17日
「内輪もめしてる場合ですか?」<<ルカ福音書11章14~26節>>
◎テロや無差別乱射事件の続発には心痛と共に暗澹たる気持ちにならざるを得ません。 心の中に他者を蔑む思いや差別感~これが悪霊の働きと言えます~が人々の魂を蝕んでいると思わざるを得ません。悪霊は生きています。
◎「口を利けなくする悪霊」とあります。 現在では聾唖者ですが、この当時は悪霊に取り憑かれていたと考えられていたのでしょう。 主イエスは悪霊の頭であるから悪霊を追い出すことができるのだと悪口を語る人がいました。 それに対して主イエスは悪霊同士が内輪もめすることはないと反論してその論を斥けられました。
◎しかしそれは他人事ではありません。 「神の国」を標榜する私たちの教会に目を向ける時、「内輪もめ」している場合ですかと自問する必要があります。 主イエスは「サタンの内輪もめ」の例を出しておられます。 病気の自分が自分(の中の病気の原因)を追い払うことができるなら医者も薬も不要です。それができるのは病気の原因よりもさらに大きな外からの力、ここでは「神の指」と呼ばれる聖霊によるしかありません。人間の力を越えるものです。 ◎さらに悪霊はいったん退散したらそれで終わりというワケではありません。再び、戻って来ると言うのです。 これが示唆することは私たちはいつも悪霊の力に曝されているということです。 それに対抗するには主イエスと共に働くということ。
換言すれば主イエスの指となって活かされて行くということでもあるのです。
2019年3月24日
「たとえ全世界を手に入れても」<<ルカ福音書9章18~27節>>
◎主イエスは「群衆は私のことを何者だと言っているか」と訊ねられたその後に「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と訊ねます。 主イエスは人々の評判を気にしていたのではありません。それよりも私たちに信仰の決断を迫られたのです。他人が何と言おうがあなたはどうなのか? ◎ペトロは簡潔に応えます。「神からのメシアです」と。他の弟子たちの反応は記されていません。 メシア=キリストです。 この時点ではその語は心地良い言葉に響いていたのでしょう。 何故ならその後に続く主の言葉(受難予告)は全く想定されていなかったからです。
十字架で処罰されて死んでしまうキリストがどうして「救い主」であり得ましょうか? この時点で誰も主の予言を正確に理解することのできた弟子は一人も居ませんでした。 ◎その上になお、主イエスは命じられます。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って」と。自分を捨てる?そんなこと出来るでしょうか。 自分の十字架を背負うとはどういうことか?
そんな辛いことが果たして人間に可能なのでしょうか? 自らにも問いかけてみてください。 自分の成功や栄誉のことだけを考える人生観とは真逆の生き方が示されているのです。
◎しかし大切なことを忘れてはなりません。 「三日目に復活することになっている」という約束の言葉です。 これがすべての苦難を解決します。
ですから自分の十字架を背負うことができるのです。あなたの十字架は何ですか?
2019年3月31日
「私が愛する選ばれし者」<<ルカ福音書9章28~36節>>
◎「この話をしてから」とありますが、それは言うまでもなく前節で十字架の死と復活(弟子たちの心には届かなかったでしょうが)のことです。 それから「八日ほどたったとき」とありますから弟子たちの心に果たして残っていたの か?
◎「祈るために山に登られた」とあります。 聖書の世界では山は神の御旨を問い聞く場です。 モーセはシナイ山で十戒の板を受け取るという重大な使命を果たしました。
神の子である主イエスですら、神の御旨を確認するために何度も山へ登って祈られリトリートをなされたのです。主イエスの祈る姿は私たちの祈りの見本であり続けます。
◎そこで弟子たちは偉大な光景に遭遇します。 「栄光に包まれ、・・輝く」イエスとモーセ(律法の代表者)とエリヤ(預言の代表者)の3人の姿です。 言うまでもなく主イエスは旧約聖書の完成者です。 律法と預言を成就する3人が「エ ルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた」というのです。 繰り返しますが「最期」とは十字架の死です。 深刻な話しです。 しかし「ペトロの仲間は、ひどく眠かった」と言うのです。 神の計画と人間の態度(理解)の この落差! ◎ペトロは「自分でも何を言っているのか、分からなかった」とありますから相当、困惑していたのでしょう。 救いの完成のためにキリストが十字架に架けられる!それが救いとどう関係するのか? 人間の理解を越える計画、それこそが神の計画であって、私たちはただそれを受け止め信じるしかないのです。「神に選ばれし者」に聴くのみなのです。
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