2019年4月7日
「捨てられた、隅の親石」<<ルカ福音書20章9~19節>>
◎今日の例え話は主イエスが十字架の苦難という運命を引き受けられた上で、
まだほとんどの人たちがそのことに気付いてない中で語られたという点に思いを
馳せる必要があります。 神である農園主は人間に農園を託されます。これは私
たちが神からこの世界の管理をすべてその自由に委ねられているということでも
あります。
◎小作人は農園主に小作料(収穫の1/4程度)を支払ってその農園を管理しますが、
欲深い小作人たちは収穫を一人占めしようとして小作料を取り立てに来た農夫を
「袋だたきにして、何も持たせないで追い返した」のです。 そのようなことが
何度も繰り返されます。 ここには預言者たちに聴こうともしない人間の姿が現
されていると考えられます。
◎農園者である神はとうとう最終手段として独り子イエスをこの世界に送る決
断をされます。 しかし人間は神の独り子を(十字架に架けて)殺してしまいます。
殺したところでその農園は自分の所有になるワケではないにも関わらずです。
何と愚かな姿でしょうか。 十字架に架けられた主イエスの足下で弟子たちも含
めて多くの群衆がいかに愚かであったかという証左でもあります。
◎人には捨てられてしまう独り子イエスは見捨てられた石に例えられています
(詩118:22)。 人間が見捨ててしまったその石こそが建物(教会)を建て上げる礎
石となるのです。 私たちもこの救済の石の上に立ち続けたいと願わないでしょ
うか?
2019年4月14日
「闇が力を振るっているが・・」<<ルカ福音書22章39~53節>>
◎主イエスの逮捕という緊迫した場面を前にして、主イエスは淡々と「いつも
のように」「いつもの場所」で祈られます。 そこに眼前に迫った苦難から逃れ
たいという思いを読み取るべきか? そうではありません。 「御心のままに行っ
てください」という全き明け渡し、献身があるのみです。
◎その場所へ夜陰に乗じてやって来るのは裏切り者ユダを先頭に、祭司長たち
でした。 彼らは武装しています。 弟子の一人が「大祭司の手下に打ちかかって
右耳を切り落とした」、まさに一触即発!不測の事態が起こらんとするところ、
主イエスは「その耳に触れていやされた」とあります。 この部分、マタイでは
「剣を取る者は皆、剣で滅びる」との言葉が発せられますが、ルカは「その耳に
触れていやされた」イエスを描きます。 敵味方に関わりなく、傷ついた人を癒
やす主イエスの姿と共に、弟子への非難を抑えようと配慮される主イエスの愛の
姿を読み取ることができるでしょう。
◎それに対してユダはどうでしょう。 依然として十二弟子の一人として親しげ
に接吻をしようとして近づいて来ますが、心は全く別のところにあります。 自
らの欲望に売り渡してしまっています。 私は決してユダにはならないと果たし
て誰が確言できるでしょうか?そこに居る弟子たちも主イエスを見捨てて逃げ去
りました(マタイ・マルコ)。
◎闇の力、サタンの力は剣では対抗することはできません。祈りと自己犠牲(十
字架)で勝利できるのです。 闇の力は一時的です。 勝利の主を信じて従いまし
ょう。
2019年4月21日
「ペトロ、先走る」<<ルカ福音書24章1~12節>>
◎ノートルダム大聖堂の火災焼失は衝撃的でまさに受難でした。 そのことに意
味があるのかどうかまでは今は分かりません。しかし、受難日(聖金曜日)が主イ
エスの十字架上の死を意味するにも関わらずGood Fridayと呼ぶのは、その死が
私たちに光をもたらすからこそGoodなのであることを心に刻む時、答えは明らか
になるでしょう。
◎主イエスのご遺体が見当たらないことに途方に暮れている婦人たち。 彼女ら
は「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。」(5節)と天使に問われま
す。 主イエスの死は人間のどのような力(石の封印)でもってしても閉じ込めて
おくことはできなかったのです。 人間は死が最後だと恐れます。 そこに閉じ込
められてしまう恐怖が残ります。しかし主イエスの復活は「生」への希望の扉を
開くのです。
◎聖書が復活の記事で締めくくられるのは、まさにそのこと自体が聖書の目的
を示しています。 見当違いの場所に命(希望)を探し続けて途方に暮れている
人々! それはまさに私たちではないか? 本日の聖書箇所からそう問いかける必
要があります。
◎「使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなか
った。」信じる人々、信じない人々。 ペトロは彼らの中でたった一人、墓へ走
って確認をしに行きました。ペトロの性格は早合点、先走りという部分があった
のでしょう。 人間の理性では信じられない事でも、もし神さまの力が働いてい
るとしたら・・・。 そこに信仰が始まります。
2019年4月28日
「わたしたちの目を開かれる主」<<ルカ福音書24章13~35節>>
◎復活節は主の顕現に出遭った弟子たちが驚く姿を通して私たちの信仰のあり
方を顧みさせてくれます。 例えば疑い深いトマス(ヨハネ22章)の信仰は誰もが
持つ懐疑を越えたところに信仰は成立することを教えてくれます。 見ないで信
じる信仰です。人間の感覚など神を知るためには何の役にも立たないのです。
◎主の十字架の死に絶望して、エルサレムを背に逃れて行こうとするクレオパ
ともう一人の弟子たちがいます。 その彼らに近づいて話しかけられる主イエス
がおられます。 しかし、彼らの目にはそれが主イエスだとは分かりません。 弟
子なら顔を知っている筈でしょう。滑稽ではありませんか。 しかし、絶望とは
物事の本質を見えなくしてしまいます。 心が閉ざされるとはそういうことです。
◎「心は燃えていた」という体験は実は向こうから一方的にやって来ます。 聖
霊の体験と言っても良いでしょう。ジョン・ウェスレーもアルダスゲートの小さ
な集会で「心が不思議に燃やされる」という体験をしたことは良く知られていま
す。 その後、彼はつくり変えられて生涯をかけて伝道者の歩みを全うして行く
ことになります。
◎私たちは過去の悲惨な経験や、常識というものに捕らわれて「これ以上、何
も新しい事は起こりはしない」とあきらめ切ってはいないか? 絶望する私たち
に主の側から近づいて目を開かせてくださるお方、主イエスこそそのように私た
ち信じる者を立ち上がらせて下さるお方なのです。
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